六、思惑(3)

 ウルズ王国第三王子アレクシスは、十六歳になっていた。エヴェルイートが王宮を出たときにはまだ十一だったから、五年ぶりの再会である。

 

 あのころはエヴェルイートを見上げていたというのに、いまでは彼のほうが背が高い。体つきもずいぶん男らしくなった。顔の作りにこそまだ少年らしさが残るが、表情は大人のそれである。その彼が、寝台に連れ戻されたエヴェルイートの介抱を買って出たので、世話されるほうは気が気ではなかった。


「殿下、御手が汚れますので……」
「気にすることはない。これは……酷いな。さぞつらかろう」


 アレクシス王子が、エヴェルイートの腹部から再び流れ出した血をやさしく拭う。たしかにつらい、辛いが、それは傷のせいだけではない。王子の手が、指が腹部を撫でるたび、どうしようもなくむず痒く、触れられた箇所が疼くのである。それは一種のせつなさをもって、エヴェルイートを苦しめた。これなら、手荒に扱われたほうがまだマシだ。痛いほどに高鳴る鼓動に押し出されるように、吐息が漏れた。


「すまない、痛むか?」
「……、いいえ」


 歯を食い縛りながら答えると、王子の手つきはますます丁寧になる。思わず体が震えたが、抗議などできるわけもない。それは王子のやさしさで、はしたない反応を示す自分のほうがおかしいのだ。


 おそらく真っ赤になっているであろう顔を背けて、ひそかに唇を噛んだ。しかしそれだけではもの足りず、腕を口もとに持ってきて歯を立てる。それで漏れそうになる声をなんとか耐えた。


 五年という歳月は、身も心も成熟させるに充分だったようである。消えずに残っていた想いは一気にその感覚を覚醒させ、エヴェルイートを予期せぬところで追い詰めた。なお、これは筆者の独り言であるが、誕生からずっと見守ってきた身としてはなかなか感慨深いものがある。だからこういうことを明け透けに語るのも許していただきたいのだが、この日の夜、エヴェルイートははじめて自涜(じとく)を覚えた。


 人は生命の危機を感じると性欲が増すというが、アレクシス王子の登場以来、ベルナールはエヴェルイートに寄りつかなくなり、(もっぱ)妓館(ぎかん)に入り浸っているという話だった。いや、ベルナール本人は健康そのものであるため、その俗説とは無関係の行動であろうが、そのおかげでエヴェルイートは心安らかな、しかし落ち着かないという矛盾した数日を過ごした。落ち着かないのは、暇さえあればエヴェルイートの様子を見にきていた王子のせいである。


 人は単純なもので、話し相手が変われば態度も変わるし、それが好いた相手であればなおのこと、気分は上向き体の調子までよくなってくる。というわけで、このところ、エヴェルイートはめざましい快復を見せていた。気づけば、惨劇から十六日が経過している。だいぶ体の自由と明晰な思考を取り戻したエヴェルイートは、父ヴェンデルとともに、アレクシス王子と密談を交わしていた。


「厄介なのは、ヴェクセン帝国への弁解だ」


 と王子が言う。言わずともおわかりであろうが、アレクシス王子は、個人の意思でカルタレスまでやってきたわけではない。無論、王都からの正式な派遣である。

 

 その目的のひとつは支援であり、先日まで遺体の回収すらままならなかったカルタレス城内は、アレクシス麾下(きか)二十名の活躍によって綺麗に片づきはじめている。無駄に大人数を引き連れてこなかったのは、ただでさえ混乱、憔悴している城内の人々に余計な負担をかけないようにという配慮であろう。よくできた王子である。その王子が選んだ少数精鋭のなかに弁の立つ者が数名いるのは、ヴェクセン帝国への使者として送り出すためであった。

 

 ちなみに、ベルナールはすでに無傷もしくは軽傷だった四人のうちのふたりを帰国させ、彼らの君主に最初の報告を行っている。


「なにぶん、大公が命を落とす危険もあったのだ。実際に死傷者も出ているし、こちらがなにか企んだと疑われてもしかたがない」
「しかし、もはや我々には竜を操る技などないことを、彼らも承知しているはずです」


 というエヴェルイートの言葉には、自嘲も含まれている。


「それだ。我らはこれまで、信仰を盾としてきた。もはやその技を持たぬということが周知の事実であったとしても、どこかで抑止力にはなっていたのだ。それが、今回の件で壊れた」


 神から竜を預かり、使役するはずのパルカイ民族が、竜に襲われた。その事実は、すでに国内のみならず、同じ神を信奉する周辺諸国にも動揺を与えている。


「竜に襲われても、我らにはなすすべもない。……ただひとりを除いて」


 そこでアレクシス王子は、父ヴェンデルを見た。


「ヴェンデル卿、あれはいったい、何者なのだ?」


 エヴェルイートは、王子の目に疑念の光を見た。当然のことだと思う。強大な力を持つ竜を操る者が、つまり比類ない軍事力が、カルタレス領主のもとでひそかに養育されていた。それを看過して支援のためだけに駆けつけるほど、王家は馬鹿でもお人好しでもないだろう。そのことは、領主ヴェンデル以下すべての関係者が、カルタレス城外に出ることを許されず、事実上の軟禁状態にあることからもわかる。


 父の返答次第では、エヴェルイートにも明日はない。


 エヴェルイート自身は、なるようにしかならないと思っている。だから父に視線を向けることもなく、静かにただ聞くだけの姿勢をとった。ややあって、父は答えた。


「イージアスは、我がブロウト家の大切な家族でございます」
「ヴェンデル卿。そういうことではなく……」
「では、お尋ねしたい。殿下の御目には、どのように映りましたか。ただの人間のようには見えませなんだか」


 現在、イージアスはアヴァロン王宮に収容されている。アレクシス王子はイージアスと入れ違いに出てきたと思われるが、彼を目にする機会はあったようで「それはそうだが」と額に手を当てた。


 双方の気持ちは、まあ、わかる。が、しかし、とエヴェルイートは思う。事件後、迷わず神学(すなわち竜)の研究機関でもある翰林院(アカデミー)に連絡を入れたのは他ならぬ父ヴェンデルで、国王管轄下にある翰林院は即座にイージアスの拘束と王都への移送を決定した。その行動といまの父の言葉が、どうにも矛盾しているように思える。


 エヴェルイートは、ちらと父を見た。そして、はっとした。一見、平素のとおり落ち着いた顔をしているが、その目には炎が宿っている。はっきりと伝わってくる。これは、怒りだ。


「そのご様子では、国王陛下からはなにもお聞きになっていないらしい」
「……なんのことだ?」


 そのあとに続いた父の言葉に、アレクシス王子だけでなく、エヴェルイートも愕然とした。


「十二年前、私にイージアスをお預けになったのは、国王陛下なのですよ。殿下」


 どういうことかと、問うことすらできなかった。それは王子も同じだったようで、ただ青ざめた顔を父ヴェンデルに向けている。父は構わず、淡々と続けた。


「私が預かることになるまえの一年間、彼はアヴァロン王宮におりました。殿下はまだ三つにおなりあそばしたころのことでございますから覚えてはおられぬでしょうが、兄君……シリウス殿下やダリウス殿下は、彼が王宮に連れてこられた日のことを記憶しておいでではないかと存じます」


 アレクシス王子はゆるゆると首を振り、


「そんな話は、聞いたことがない……」


 ようやく声を絞り出した。そんな王子を、父は一瞥しただけである。


「お疑いのとおり、私は彼の能力を知っていた。しかし、国王陛下もまたよくご存知のはずなのです。むしろ、私などよりよほどお詳しいでしょうな」
「どういうことだ? まさか、あの者は私たちの兄弟なのか?」
「そうではございませぬ。彼は哀れな孤児に過ぎない。ただ、竜とともに静かに暮らしていた彼らを、我々が見つけて利用しようとしたが、結局うまくいかなかった。それだけのことです」
「彼ら、だと? 竜を操る者が他にもいるのか?」
「そう推測できます」


 王子が唾を飲み込んだのがわかった。エヴェルイートも同じ反応をしていた。またすこし沈黙があって、王子がかすかに震える声でそれを破った。


「改めて問わせてほしい。彼は……彼ら、とは、何者なのだ?」


 対して、父はきっぱりと答えた。


「おそらくは、古くに(たもと)を分かった我らが同胞。現時点ではその程度しかお答えできませぬ。それを研究するために、彼はアヴァロン王宮に置かれていたのです」


 そういえば、幼いころ父は頻繁に王都に出向いていて、エヴェルイートはその寂しさでエリスやウリシェを困らせるようなことばかりしていた気がする。王宮でそんなことが行われていたとは、露ほども知らなかったが。


「その一年間でわかったことはただひとつ、彼らは言葉を持たず、歌で竜と会話する」
「……歌?」


「そうです。まるで唄うような竜の鳴き声を、お聞きになったことがございましょう。たぶん、それが竜にとっての言語で、彼らはそれを理解し共有することで、意思疎通を可能にしている……それだけで竜を操ることができるのかは、わかりませぬが」
「そこまでわかっているのなら、我らにもなんとかできそうなものだが」


「当時、私たちもそう考え、彼にイージアスという名を与えて我々の言葉を教えました。イージアスを通して竜の言語(うた)を理解しようとしたのです。が、やはりそう簡単にはいかず、頼みの綱であるイージアスは我々の言葉を覚えたことにより扱いにくくなった」


 そこまで聞いて、エヴェルイートはなんとなくわかったような気がした。イージアスが、その名を好きではないと言った理由が。それから、あのとき聴こえた歌声と、竜を撫でる姿を思い出す。あれが竜との会話だとしたら、彼は、あのときなんと言っていたのだろう。


「王国の利とならぬならば、せめて王国の害とならぬ存在にするしかない。反発的な態度をとるイージアスを一旦王都から遠ざけ、従順なウルズ王国民となるよう教育する計画が立ち上がりました。そこで白羽の矢が立ったのが、このカルタレスです。ここには、国王陛下の管理なさる翰林院がある。イージアスを翰林院に入れてしまえば、陛下のお望みどおりの教育を施すこともできるし、監視もできる。妥当な判断です。我が家での彼の生活に口を出さぬことを条件に、私は彼の身柄を引き受けました。無論、彼を思いどおりにはできないということも考えられた。その危うさを承知の上で、国王陛下は私と協力関係を結ばれたはずなのです」


 そこで、父の声が、変わった。


「それが……これはいったいどうしたことか。陛下はなぜ、素知らぬ顔をして我がブロウト家を糾弾なさる? 我らがなにをしたというのだ」


 ああ、そうか、とエヴェルイートは思った。父の怒りは、やり場のない怒りなのだ。国王に仕え、領民や一族を守る義務を負うブロウト家当主としての立場と、イージアスの父親代わりという、一個人としての立場。その間で父は葛藤し、断腸の思いで当主としての自分を選択した。どうしようもなく、やりきれない気持ちだろう。そこに向けられた、理不尽な疑いの目。


「不敬を承知で申し上げる。このたびの陛下のなさりよう、あまりに卑劣。我がブロウト家を貶めようという意図しか見えぬ!」
「ヴェンデル卿!」


 王子が立ち上がり、椅子が倒れた。その派手な音の残響が消えてから、王子は深く息を吐いた。


「私もそなたも、冷静ではない。いまはここまでとしよう」


 父も同じように息を吐き、答える。


「御意のままに。……ご無礼を」
「もう一度言うぞ、冷静ではなかったのだ。……私は風にあたってくる。そなたも頭を冷やせ」


 出て行こうとするアレクシス王子を、エヴェルイートは茫然と見送った。そう広い部屋ではないから、もう王子は扉に手をかけている。ああ、行ってしまうな、などとぼんやり思った。ところが、どうしたことか、王子は扉を開けたところでそのまま固まってしまった。その背中が、明らかに緊張している。


 エヴェルイートが声をかけようか迷っていると、アレクシス王子の口から、いま絶対に聞いてはならない名前がこぼれた。


「……ベルナール、どの」


 その瞬間、エヴェルイートも父ヴェンデルも凍りついた。


「ああ、アレクシスどの。風にあたるなら北側の塔がよいと思うぞ。すこし寒すぎるがな」


 認めたくなくても、その軽薄な声はどうしても耳に入る。まぎれもなく、あの男の声だった。


「やあ、これはこれは。こちらにお揃いであったか。なんだ、無駄に探しまわってしまったぞ」


 動けなくなったアレクシス王子をやんわりと押しのけ、遠慮なく室内に入ってくる。


「さて……なんの話をしておられたのかな?」


 笑みを浮かべたヴェクセン帝国大公の翠眼が、不敵に鋭く光った。