九、開戦(1)

 木々が、揺れた。まるで少年の胸のうちを映すかのように、強い風に煽られて大きく揺れた。


「いやぁ、いいお天気でよかったねぇ」


 洞窟から姿を現したのは、一見女性かと思うほど線が細く、小柄な青年だった。珍しい細身の剣を()いただけで、鎧や兜は身につけていない。見るからに上等な衣服、左手首には緑色に輝く小石を連ねた飾り。癖のある長めの前髪から覗く紫の瞳はまろやかで、優美といえる顔に浮かべた笑みはやさしげですらある。だが。


「ここまで楽しかったでしょ?」


 腕で七星(ナナホシ)の首を絞め上げ、それを少年たちに見せつけるようにする彼の言葉からは、歪んだ愉悦の響きは感じても、人の情は微塵も感じられなかった。


 青みを帯びた黒髪が風に靡く。少年の愛する清らかな夜の色彩が、この青年のものになるとひどく禍々(まがまが)しい。


 思わず視線を逸らせば、並んでこちらを狙う無数の矢が見えた。いつの間にか完全に取り囲まれている。さらに青年のうしろ、洞窟の奥からも人影が次々と現れ、剣を抜いた。ざっと見た感じ、あわせて三十人ほどはいるだろうか。青年とは違い革の甲冑を着込んだ彼らには、兵士と呼称するに相応しい厳つさが備わっている。


「あ、そうだ」


 と、その指揮官なのであろう青年が七星を放り捨てた。()せながら倒れ込む彼女を無視して、悠々とこちらに歩いてくる。彼が足を止めたのは、傷口を庇いながらも七星に駆け寄ろうとしていた花梨(カリン)のすぐ正面だった。


「覚えておいたほうがいいよ」


 見下ろす目もとが楽しげに歪む。その指が躊躇なく花梨の肩に伸びて、そこから突き出る折れた矢柄(やがら)に触れたとき、痛ましいほどの絶叫が辺りに響いた。


「花梨!」


 反射的に動いた少年の行く手を、山瑠璃が静かに遮る。わずかに首を横に振る、その瑠璃色の目は冷静だ。それをじっと見つめてから、再び花梨のほうを向き、彼女を苦しめる矢がまだ青年の手中にあることを認めると、少年は唇を噛んでその場に踏みとどまった。対して笑みを浮かべたままの青年はそれを横目でちらと見ただけで、すぐに視線を手もとに戻す。


「この矢はねぇ、うちの特製なんだ。(やじり)にちょっと変わった返しがついてて、一度体内に入ったら簡単には取り出せないようになってる。だから無理に引き抜こうとしなかったのはいい判断だったね、偉いえらい」


 青年の指が、花梨の震える肩の上をつう、と通り過ぎた。


「だけど、もったいないことしたねぇ、キミたち。うちの矢は最高級品だよ? 折らずに残しておけば高値で売れたのに」


 と、青年が覗き込むようにこちらを見たとき、


「ユライさま」


 たしなめるような声が聞こえた。ひとりの兵士が進み出て首を横に振る。

 

「そのように低俗な話をなされまするな」


 よく見てみれば、その兵士の装備は他の者よりいくらか立派だ。声の感じからするとけっこう年嵩(としかさ)で、体格からも積み重ねてきた鍛錬や実戦の日々がうかがえる。実質の将といったところだろうか。


 ユライと呼ばれた青年が気怠げに顔だけ振り向き、華奢な肩をすくめた。


「あー、はいはい。まったくキミは高潔ですばらしいね。さすがはあにうえ(・・・・)の寄越したお目付け役だよ」
「目付け役などと……兄君はただあなたさまの御為を思って」
「あー、いい。そういうのいいから」


 などと言い合いをはじめた彼らを眺めながら、なにやら考え込んでいた山瑠璃が呟いた。


「ユライ……?」


 そして、はっとしたように目を見開く。
「あなた、サガンの……」


 サガン。それは、これから逃げ込もうとしていた山向こうの土地の名だ。少年も息を呑み、山瑠璃の視線を追った。


 にっこりと笑む顔が、こちらに向きなおっていた。


「そうだよ、はじめまして。僕はユライ=アユール=ケルヴィナー。サガン領主ペテルの息子だよ」


 よろしくね、と差し出された手を、山瑠璃が払う。乾いた音が響いた。立派な装備の兵士が「無礼な」と一歩動いたが、ユライはもう片方の手でそれを制した。


「……知ってるかな。ケルヴィナー家は武器の開発と販売で成り上がった家なんだ。門外不出の技術をたくさん持ってる。たとえばこの矢はね、じつは矢羽にも特徴があって」


 言いながら、再び花梨の肩を指さす。


「武器には不向きとされてきた亜人の羽根を加工して組み込むことで、高い性能と見た目の美しさを両立させてるんだよ」

 

 それから両手を広げ、


「キミたちのお仲間も、いまごろ矢羽に加工されたりしてなきゃいいけどねぇ?」


 少年たちを包囲する矢を見せつけるように、一度くるりと回ってみせた。


 つまり先にサガンへ行ったはずの彼らは、すでに捕らえられたということなのだろう。山瑠璃が低く呻くように声を出した。


「あなたたちの目的はなに? サガン領主のご子息が、わざわざわたしたちのような弱者を追い詰める理由は?」
「弱者、ね。おもしろいことを言うねぇ、キミは」


 ユライの目が、すうっと細められた。


「ベルナール・アングラード。……知ってるよね? キミたちの妓館(ぎかん)によく出入りしてたことも調べはついてる。ていうか、まあ、それ以前の問題なんだけど」
「…………」
「彼はいまごろ王宮で身柄を拘束されてるよ。どういう意味か、わかるよね?」


 ガクン、と視界が揺れたのは、その言葉による衝撃のせいだけではない。背後から押し倒されて強く頭を打ったのだ。次いで腕を掴まれ、うしろ手にきつく縛られる。その痛みと押さえつけられる圧迫感に、息が詰まった。


「待って! なんのこと? わからないわ、そんなひと知らない!」


 少年と同じように縄を巻かれる山瑠璃が、地面に頬を擦りながら叫ぶ。花梨や七星はもはやなにもできずに、おとなしく腕を差し出していた。


「知らない? 本当にぃ? じゃあ、彼の言ってたことは嘘だったのかなぁ」


 そう言ってユライが手招きすると、兵士たちのうしろからひとつの人影が現れた。背中を押されてふらふらと歩いてくるその姿は、どう見ても兵士ではない。武器も防具もなく、着古した感じの衣服は一般的な農夫のそれで、やはり首と手に縄がかけられている。両手首に汚れた包帯、頬には殴打の痕、口の端にも乾いてこびりついた血。それらがなければ涼しげな印象を受けるすっきりとした目鼻立ちの、おそらく、二十に満たない若者だ。


「……アイザック?」
 乱れた髪の隙間からその様子を見ていた山瑠璃が、声を上げた。


「アイザック! なんて……なんてこと、」
「山瑠璃さん……すみません」


 やがて少年たちのまえまでたどり着いた若者が力なく言う。その銀色の瞳が濡れて、薄い色の髪は頬に張りついていた。


「山瑠璃、このひとって……」
「……サガンには顔なじみも多いって言ったでしょう? 彼もそのひとり。わたしたちと同じ……春の一座の一員よ」


 少年が小声で尋ねると、思ったとおりの答えが返ってきた。では、このアイザックという若者が情報を漏らしてしまったために、ユライたちはここで待ち伏せができたというわけか。わざわざカルタレスの追手を装って洞窟まで誘い込んだのは、確実に少年たちを捕えるためか、それとも、ただの退屈しのぎだったのか。いずれにせよ、最初から完全に相手の術中にはまっていたということになるのだろう。


「この子になにをしたの!」
「なーんにも? ただちょっと楽しくおはなししただけだよ、ねぇ、アイザック?」


 言いながら、ユライがアイザックの首もとに巻かれた縄を引く。そのせいで首が絞まったのか、短い悲鳴が上がった。


「彼がいろいろ教えてくれたからね。それを宮廷に報告したら、じゃあ悪者はみんな捕まえようってことになっちゃって。ごめんねぇ? 僕個人としてはこういうことしたくないんだけど、勅命が下ったら従わないわけにもいかなくてさぁ」


 ひどく楽しげな声が、耳朶(じだ)を震わせた。


「ああ、でも、嘘なんだっけ? キミたちは知らないんだよね、ベルナールなんて異国人のことは? そっかぁ、アイザックは嘘つきかぁ……嘘つきにはおしおきが必要だね?」


 縄が、さらに強く引かれる。苦悶の声が、次第に詰まって途切れてゆく。まるで踊るように小刻みに動く足が、ついに震えるだけになった、そのとき。


「やめて!」
 山瑠璃の、ほとんど泣くような声が響いた。


「嘘じゃない、認めるわ! 知ってる、話すわよ全部、だからもうやめて!」


 その直後、アイザックが膝をついて激しく咳き込んだ。うずくまる背中が、少年の目のまえで大きく上下する。


 死ぬかも、しれなかった。


 いま。ここで。

 人が、殺されていたかもしれなかった。


「あ、そう? じゃあちょっとお願いがあるんだけど」


 そう言うユライの顔を、見上げることができなかった。背筋を走る、命を握られているという、実感。そうだ。花梨だって、あのとき――死んでいたかもしれなかったのだ。


「僕たちカルタレス城まで行きたいんだ。でもいま暴動で大変なことになってるじゃない? だからね、こっそり安全な道を通りたいんだよね。そう、たとえば……地下とか」


 すべるように動く爪先が、近づいてくる。


「案内、してくれるよね?」


 だれも、それを拒む者は、いなかった。