七、あなたと離れて(1)

 ただ、風の音を聞いていた。

 

 瑠璃姫はしっかりと目を開けていたが、その実、なにも見てはいなかった。たしかに景色はそこにあって、真昼の太陽が照らすそれを瞳は捉えているはずなのに、すべての情報がすり抜けてゆくのだ。だから、ただ風の音だけを聞いていた。

 

 心が空洞になったようだ。なにもない。それでも、考えてしまう。思い出してしまう。

 

 そして、あふれそうになる。

 

 あの夜以来、ベルナールは頻繁に後宮に足を運ぶようになった。それまで放置されていたも同然だったそこには、亡きイシュメル王のために集められた高級女官(妃候補)たちがいまもなお身を置いている。イシュメル王の後宮は規模こそ大きくはないものの、その分、選りすぐりの姫君が揃えられていた。容姿はもちろん、家柄という点においても、である。それゆえに、慎重な扱いにならざるを得ないというのが現状であった。

 

 こういう場合、ふつうだったら女たちは殺されるか、尼僧院にでも送られてひっそりと余生を過ごすのであろう。先王の手がついた可能性のある女というものは、新しい支配者にとってはそれだけで厄介な存在になるからだ。しかし、西部の主要都市をヴェクセン皇帝マティアスが押さえ、王宮と王都周辺をベルナールが支配し、それを認めぬと言わんばかりに聖都が王女アウロラの生存を主張するいま、残され戸惑うウルズ諸侯の娘でもある彼女たちは、重要な手札ともなり得るのである。

 

 その点、瑠璃姫にはなにもない。いま、このまま姿を消したとしても、きっとだれも気にしない。

 

 名を捨てるということはそういうことなのだと、いまさらながらに理解した。

 

 風が、長い裾を揺らして駆けてゆく。

 

 なんとはなしにその行方を目で追いかけると、一頭の竜が檻のなかで静かに眠っているのが見えた。

 

 アヴァロン王宮の竜舎は、相変わらず時を止めたままだ。

 

 ここでイージアスと取っ組み合いの喧嘩をしたのも、アウロラの想いを受けたのも、そして――耐えきれずに自分を手放したのも、もう、二年もまえのことなのに。

 

 あのとき、弱っていると聞いたこの竜はまだたしかに息をしていて、どういう仕組みなのかずっと眠り続けていた。不思議なことに、食事も一切摂らず、排泄をした様子もない。

 

 それ自体は、都合のよい状態ともいえた。檻には(じょう)が掛けられているのだが、それを開けるための鍵が見つからず、世話をしようにもできないのだ。ただ、そういう状態になった、あるいはならざるを得なかったこの竜のことを思う。

 

 他の竜が一斉にウルズを去ったときも、この一頭だけはここにいた。ここに取り残されていた。

 

 なにを、感じていたのだろう。(ひと)りで、ずっと。

 

「……イージアス」

 

 知らず口からこぼれたのは、友の名だった。

 

 本来、この竜とともに、どこかで生きていたはずだった、きょうだい。

 

「おまえが見たらなんて言うかな」

 

 自嘲気味に呟いて、瑠璃姫は檻に背を向けた。そのまま竜舎をあとにする。

 

 こんなところで感傷に浸ってなどいられない。顔を上げ、あの日の空を思い出す。

 

 紅く燃える雲と、帰ってきた竜の群れ。高く咆哮を上げながら旋回するその姿が、まるで、彼の言葉を伝えるようで。

 

 アウロラの亡骸を抱えて(うずくま)るしかなかったこの背中を、叩かれたような気がしたのだ。

 

「おれはおれでやっている。おまえはおまえでやっていけ」

 と。

 

 足もとで草が小さく音を立てた。

 

 一歩一歩をたしかめるように、歩いた。

 

 これは自分で選んだことだ。信じて、堂々としていればいい。たとえそのせいで情けない顔を晒すことになっても、馬鹿じゃないのかと呆れられても。

 

 おまえにだけは、嘘をつきたくないから。