七、ドレスと男気(3)

 右腕を吊っていた布を外す。

 

 まだ痛むが、たいしたことはない。ゆっくりと腕を下ろして、前開きの上衣を肩からすべらせた。ぎゅっと締めつけた胸もとがあらわになり、服は乾いた音をたてて床に落ちる。下衣も脱ぎ去り、最後に、ウリシェに頼んで胸の布の結び目を解いてもらった。ことさらゆっくりと、なにかの儀式のように、そのわずかな膨らみが夜気に晒されてゆく。

 

 ついに、右腕と腹部の傷を覆う包帯以外、なにもなくなった。少女のような、少年のような、それ以上の成熟を許されない曖昧な身体が、揺れる蝋燭(ろうそく)の灯を受けて闇のなかに浮かび上がる。


 ウリシェが、裾の長い女物の服を(うやうや)しく差し出した。まず足を通して、先ほどとは逆に引き上げる。優美な刺繍の入った長い袖に腕を通すと、ウリシェは背中に回って紐を締め上げていった。次第に衣服は肌に密着し、身体の線をくっきりと描いてゆく。帯で飾られた細い腰、やわらかく盛り上がる胸。ずっと忌み嫌ってきた、女である自分が、そこにいた。


 不思議と、心は凪いでいた。自ら、母の形見の櫛を手に取り、髪を梳いた。短い髪は女装には向かないが、被り物をしてしまえば長髪を纏めているようにも見えるだろう。厚い化粧は必要ないというウリシェの助言に従い、荒れ気味の唇に紅だけさしておいた。


「お綺麗ですよ、腹立たしいほど」
「……そうか」


 自室から持ち出した短剣をウリシェから受け取り、胸を縛っていた布で太ももに括りつける。なるほど、女物の衣服はこういったものを隠すには便利だ。母の櫛は、帯のなかに仕舞った。


「ウリシェ」
「はい」
「ありがとう。あとはうまく誤魔化しておいてくれ」
「ひどく面倒ですが、承りましょう。ただし、その代わり」
「なんだ?」
「その服も、帯も、わたくしのお気に入りです。無事に返さなかったら承知いたしませんよ」


 まったく、本当に遠慮というものを知らない侍女である。エヴェルイートは笑って、答えた。


「ああ、わかった。行ってくる」
「……はい。行ってらっしゃいませ、エヴェルイートさま」


 深く頭を下げるウリシェに背を向けて、灯りを手に、部屋を出た。


 出るとすぐに、あの初心(うぶ)な兵士と目が合った。怪訝そうな面持ちで、こちらに近づいてくる。さて、ここからが勝負だ。


「娘、いま、この部屋から出てきたか?」
「ええ、出てまいりましたけれど。それがなにか?」


 普段より高い声で、小首を傾げながら答える。


「いや、その、ずっと部屋のなかにいたのか? そこは別の侍女の部屋なのでは?」
「ああ、二人部屋ですよ、二人部屋。まったく若さまときたら、ウリシェさましか見えていないのですもの。わたくしいたたまれなくて、出てきてしまいましたわ」


 我ながら、なかなかの擬態だと思う。ちなみに参考にしているのは、実際にウリシェの下で働く若い侍女である。


「あなた、若さまを見張っている兵隊さんでしょう? そういうのよくないと思うわ。まあ、あなたもそれがお仕事なのでしょうから、うるさく言うつもりはありませんけれど。とにかく、いまはそっとしておいて差し上げて」
「いや、しかし」
「あ、もしかして、わたくしが若さまの変装なんじゃないかと疑っているのではなくて? 失礼な! そりゃあ貧相かもしれませんけどね、ちゃんと本物よ!」


 と兵士の手を取り、自身の胸に押し当てた。まだ治っていない腕が痛んで、それが動作や顔に出てしまったのではないかと思ったが、おもしろいくらいに狼狽(うろた)える兵士には気づかれなかったらしい。


「し、失礼!」


 飛び上がりながら手を引っ込めた兵士は、きょろきょろと辺りを気にしつつ道を譲った。


「あら、もうよろしいの。では、ごきげんよう。……くれぐれも野暮なことはなさらないように」
「は、はい!」


 大丈夫か、この男。そう思いながら、エヴェルイートはしゃなりしゃなりと歩いてみせた。長い裾は煩わしいが、すこしつまんで持ち上げてしまえば歩きづらいということもない。おそらく、いま兵士の目に映っているのはもう別人だ。常に人の目を気にして注意深く観察してきたことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。


 だが初心な兵士をやり込めたところで、安心できるわけではない。目指すは、ベルナールの言っていた枯れ井戸である。彼のことを信用しているわけではないが、いま頼れるのはその情報しかなかった。ときに堂々と、ときに隠れながら、エヴェルイートは進んだ。


 使用人宿舎の、本当に目立たない片隅に、その枯れ井戸はあった。周辺は手入れされておらず雑草が生い茂り、さらに蔦が絡むことでますます人目につかないようになっている。エヴェルイートもその存在自体は知っていたが、こうしてまじまじと見ることははじめてだった。落下防止のための蓋に、最近動かされた形跡がある。ほぼ間違いなく、ベルナールだろう。あの竜に襲われた日の昼、彼が顔や衣服を汚していたのは、たぶんここを探ったためだ。


「本当になんなのだ、あの男は……」


 いまさらながら背筋が冷えたが、もうなんでもよい。いまはとにかく、先へ進みたい。


 蓋をどかし、井戸のなかを覗き込んだ。当然だが、見えるのは深い暗闇ばかりだ。太ももと短剣を縛っていた布を一旦外し、灯りに結ぶ。短剣は帯に差して、灯りをゆっくりと井戸のなかに落としていった。もともとはしっかりと胸を潰すために幾重(いくえ)にも巻いていた布なので、長さはたっぷりある。灯りが下方へ進むたびに、すこしずつ井戸のなかの様子が見えてきた。どうやら、ご丁寧に足場まで作ってあるらしい。つまり、もともとそういう(・・・・)目的で作られたものなのだろう。いける。確信した。


 灯りが最深部まで到達したことを感触で知ると、エヴェルイートは長い裾を縛り、灯りに取りつけた布も手首に巻きつけて結んだ。一度、負傷した右腕を軽く動かしてみる。やはり、まだ体重を預けるのは無理があるようだ。だが、これでもそれなりに努力してきた。これだけしっかりした足場があるなら、左腕だけで充分だ。


 一応、ウリシェのお気に入りを汚さないように気をつけながら、足を降ろした。左腕で体を支え、痛む右腕を叱咤しながら蓋を閉める。月明かりすら遮断された空間で、下に見えるわずかな灯りを頼りに進んだ。


 さいわい、そう深い井戸ではなかった。ほどなくして最深部にたどり着くと、そこには「道」が広がっていた。


「地下水路……」


 水は枯れているが、壁は石組みで補強されており、立派なものである。ただ、ずいぶんと古い。


「これは……アッキア・ナシアの遺構か?」


 ウルズ王国の地下水路とは、どこか様子が違う。エヴェルイートは、古い石組みを撫でた。かつてこの地で繁栄した「銀灰の古王国」アッキア・ナシアを土台に、ウルズ王国は建っている。その面影はまだそこかしこに残っており、たとえば王宮の一部などは古王国時代のものがそのまま使われているという。だがこんなものが地下に張り巡らされているなんて知らなかった。しかし、わざわざこんな枯れた地下水路と井戸を残してあるということは、やはり、そういうことなのだ。


 これは、有事の際の脱出経路だ。


 エヴェルイートは灯りを持ちなおし、歩き出した。どこに繋がっているかなど知らぬ。本当に安全かどうかもわからぬ。それでもひたすらに、王都を目指した。


 そうやって、どれくらい歩いたのだろう。やがて、井戸と思われる縦穴に出た。ということは、出口だ。まだ水路は続いているが、一度外の様子をたしかめたほうがよいかもしれない。だが、ここにはカルタレス城の枯れ井戸と違って足場がない。どうしようかと思案していると、不意に、頭上から青白い月明かりが射し込んだ。


「あ、やっぱりいた」


 何者かがこちらを覗き込んでいるのがわかる。エヴェルイートは戦慄した。まさか、そんな。


 どうして、と考えるより先に、足が動いていた。終わってたまるか、こんなところで。


「あ! ちょっと、待ってよ!」


 知らないだれかの声が響く。女の声だ。女? では、兵士ではないのか。だったらなんだ。わからないが、走る。走って、気づいた。近づいてくる。(ひづめ)の音だ。もう、近い。


 聞こえる。真うしろだ。


「もう、待ってって言ってるのに!」


 振り向く。すぐそこに、女がいた。女の褐色の肌と銀色の髪、それから、頭部から生える二本の角が、わずかな灯りにきらめいた。


「亜人!?」
「たしかに亜人だけどさ。そんなに怖がらなくてもいいじゃない、よっ!」


 捕らえられ、持ち上げられる。次の瞬間には、女の背中が目のまえにあった。いつの間にか、なにやら手触りのよい毛皮の上にいる。あたたかい。そうか、これは……女の体の一部だ。


「しっかり掴まってて!」


 女はエヴェルイートを乗せたまま、その山羊(やぎ)のような下半身を踊らせた。蹄が鳴る。瞬く間に先ほどの井戸まで戻ると、その壁を一気に駆け上がった。


「はい、もういいよ! って、あれ……大丈夫?」


 気づいたら、地上だった。正直に言って、まったく大丈夫ではない。振り落とされないように必死だったエヴェルイートは、すっかり固まってしまっていた。


「まぁったく。アンタはいっつも、はしゃぎすぎなのヨ」


 足もとから、山羊の女とは別の声がした。見ると、どこか獣じみた顔の少女が座っていて、ふさふさの耳や尻尾を気だるげに振っている。その少女がやおら立ち上がり、エヴェルイートの耳もとに鼻を寄せた。


「うん、間違いないネ。ベルナールさまの匂いだ」


 エヴェルイートは、はっとした。紅玉(ルビー)の耳飾りが、小さく揺れる。道標。ベルナールがそう言って、寄越したものだ。では。


「もしかして……助けてくれたのか?」
「もしかしなくてもネ」


 少女が、ニィっと笑った。


「でも、どうして……どうやってわたしを見つけたんだ?」
「犬は鼻が利く。山羊は目が利く。それくらい知ってるでしょう?」


 また別の声が答えた。振り向く。やはり女だが、亜人ではない。二十代半ばくらいだろうか。豊かに波打つ黒髪を夜風に遊ばせて、しなやかに立っていた。


「今晩は、お嬢さん。ようこそ、春の一座へ」


 片耳に紅玉の耳飾りをつけた黒髪の女が、優雅に腰を折った。