十五、約束(1)

 いち早く答えたのは、セヴランだった。


「これは申し訳ございませぬ。我が主人(あるじ)がなかなか面倒なことをおっしゃいますので、いささか手間取りました」


 ベルナールが、数段高いところにある玉座に腰掛けたままで言う。


「それはご苦労だったな。ところでそなたの主人とは、このような顔の美丈夫ではなかったか?」

「おや、失敬。美丈夫とは気づきませなんだ」


 笑う。まるで状況にそぐわない、じゃれ合うような軽い調子である。(くつろ)いだ様子すら見せる彼らに、アウロラはもはや感心するしかなかった。とくにベルナールは甲冑も身につけていないのだ。これが余裕というものか。自分たちにはまったくなかったものだ。


「殿下はひどい。この時期に山越えをせよなどと、よく言えたものですな」
「そなたらを信じてのことだ。実際、こうして無事に到着したではないか」


「ええ、それはもちろん、我らの手腕を持ってすれば。しかし指示が投げやりすぎます。機会を逃すな、任せる、よしなに。……なんですかそれは。手習いをはじめたばかりの我が子のほうが、まだまともな(ふみ)を寄越しますぞ」

 

「そうだな。そなたが有能でよかった」
「まったくです。待遇の改善を要求いたします」


 しかしいい加減、こちらも話に入れてもらいたいものである。そんなアウロラの気持ちを代弁するように、エヴェルイートが動いた。まえにいたアウロラの横を通り過ぎ、静かに、しっかりとした足取りで歩いてゆく。その先には、玉座しかない。みな微動だにせず、それを見守った。


 やがて、足が止まった。玉座まではまだすこし距離がある。大きく息を吸ったのだろう、エヴェルイートの肩が動いた。なにを言うのかと耳に意識を集中させた、そのときである。アウロラの耳は、激しい金属音を捉えた。


 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。というよりは、エヴェルイートのその行動が(にわ)かには信じられなかった。短剣を投げつけたのだ。玉座にいるベルナールの顔面を目がけて。そしてそれをベルナールが剣で弾き返した。金属音は、その衝撃で生じたものだった。


「……おりてこい」


 地を這うような声が聞こえる。アウロラは驚いた。これが本当に、あのおにいさまの声なのだろうか。一度イージアスと喧嘩しているところは見たが、そのときとはまったく違う。つまりこれが殺気というものなのだと、アウロラは理解した。


 ベルナールが笑いながら立ち上がった。


「思い出したな? 私のことを」
「聞こえなかったか? おりてこい」


 思わず身震いした。こんな凄みのあるひとだったのか。どうやらアウロラは、まだエヴェルイートのことをなにも知らなかったらしい。それにひきかえベルナールは、驚きも悪びれもせずに悠々と首を横に振る。


「やれやれ、勇ましいにもほどがあるぞ。玉座に傷がついたらどうする」


 言いながら、段を下りる。途中で短剣を拾い、軽く放り投げて刃を指先で摘まむように受け止めると、そのまま柄をエヴェルイートのほうに向けて歩み寄った。受け取れ、ということだろう。


「よい剣だ。大事に仕舞っておけ」


 エヴェルイートは無言で、素直にそれに応じた――と思ったら次の瞬間。


 再び鋭い音が響いた。そのあとも、高く、低く、ぶつかり合う音は止まらない。だがよく見ると、攻撃しているのはエヴェルイートのほうだけだ。ベルナールはほとんど動かずに、ただそれを受け、あるいは()けていた。その光景が、アウロラには羨ましかった。ふたりで踊っているようにも見えた。しかしエヴェルイートには腹立たしかったらしい。こちらにまではっきりと聞こえるような舌打ちをして、大きく踏み込んだ。


 ベルナールがひらりと躱す。そしてはじめて剣を振り上げ、エヴェルイートの短剣を打ち落とした。エヴェルイートはよろめき、床に手をつく。これで終わりか、と思ったアウロラはやはりわかっていなかった。それがエヴェルイートの狙いだった。ついた手を軸にして体を捻り、(したた)かにベルナールの股間を蹴り上げたのだ。


 声にならない悲鳴が漏れる。隣に立つセヴランが息を呑み、次いで唾も飲み込んだ。首筋にうっすら汗が浮いている。


 ……それほどか。アウロラはひとつ護身術を覚えた。


 エヴェルイートはそのまま短剣を拾うと、悶絶するベルナールを押し倒す。それから馬乗りになって、思いきり短剣を振り上げた。


「待て、」


 というか細いベルナールの制止もむなしく、(きら)めく刃が振り下ろされる。ところが。


 切っ先がベルナールの喉もとに突き立てられる直前、それは自ら動きを止めた。


 セヴランが緊張を解いたのがわかった。アウロラも息をついた。荒い息遣いだけが聞こえていた。そのうちに、それに嗚咽が混じった。


 しばし呆然としていたベルナールが、そっとエヴェルイートの手に指を絡めた。短剣が床に落ちて、カラン、と音を立てる。アウロラはそれを静かに見ていた。


 ベルナールがゆっくりと上体を起こす。透明な粒が光るエヴェルイートのまつ毛に、後頭部に、頬に、触れる。そのあとどうなるのかは、見なくてもわかった。だから、目を閉じた。


 ほんのわずか、くぐもったような声が聞こえて、泣き声が止んだ。


 短い静寂。


 それから、ふたりぶんの息が同時に吐き出されたのを感じた。


「……すまなかった」
 ベルナールの声。


「……なにが」
 エヴェルイートの揺れる声。


「あなたを傷つけた」
「…………」
「あなたの望まぬことをしたくない。……泣かせたくない。もう苦しませたくない」
「……それで?」
「あなたの、今後の生活は保障しよう。どうか心安らかに暮らしてくれ」


 その言葉尻に重なって、なにか鈍い音がした。そしてまたすぐに、声。


「ふざけるな! どうしてそう勝手に決める!? わたしにはなにも言わないで……なにも言わせないで! あなたに会って、ちゃんと話そうと思っていたのに……わたしは、あなたを見るとわけがわからなくなる……! どうすればいいかわからない、なにがしたいのか、なにを聞きたいのか、わたしは……わたしは……!」


 驚くような、ハッとなにかに気づくような、そんな音が聞こえた。大きく動く気配を感じた。


「愛している」


 聞こえた。ベルナールの言葉が、いやに明瞭に聞こえた。


「エヴェルイート、あなたを愛している。離したくない。ともにいたい。愛している」


 ああ、これで。


「ベルナール」


 アウロラの初恋は、本当におわるのだ――


「……わたしは嫌いだ」


 ――と、覚悟したのだが。吐き捨てるようなその返答があまりに予想外だったので、アウロラはつい、目を見開いてしまった。


 エヴェルイートを抱きしめたまま固まった、ベルナールが見える。その腕のなかから抜け出して、エヴェルイートが言った。


「わたしはあなたが大嫌いだ、ベルナール・アングラード。そうやってまた惑わせようとする。あなたが、嫌いだ」


 と背けたその顔が真っ赤になっていることは、きっと本人も自覚しているだろうに。


 まったく、しようのないおにいさまですこと。アウロラはこみ上げる笑いを堪えることができなかった。慌てて口もとに手をやるが、それでも抑えきれない。もういいか、と、思いきり口を開けて笑った。はしたないことだとはわかっていた。けれど、こんなに楽しいのははじめてだった。


 キョトン、と三人がこちらを見ている。それもまたおかしかった。ひとしきり笑って、目尻に浮かんだ涙を拭い、息を整えながらやっと、アウロラは意味のある言葉を紡いだ。


「前途多難ですわね、ベルナールさま」


 これは皮肉でもなんでもない。アウロラなりの激励である。それは正しく伝わったようで、


「そうでもないさ」


 とベルナールも笑った。


 悔しくはなかった。本当は、知っていたのだ。自分のなかにあったのは、純粋な恋心ではなかった。もっと厄介な執着だった。それをエヴェルイート本人に突きつけられて、目が覚めた。でも。やっぱり。


 ほんのすこし、胸が痛むのは、その想いも嘘ではなかったからで。


 視界の端が滲むのをごまかすように、アウロラは笑った。


「まあ、わたくしの知ったことではございませんわ」


 こうしてアウロラは、初恋に別れを告げたのである。