七、あなたと離れて(4)

 その視線に気づいたのは、ウイルエーリアと別れた直後、門を出てすぐのことだった。

 

 だが瑠璃姫はあえて無視して歩き続けた。声をかければ、幼いこの視線の主がほかのだれかに咎められるであろうことがわかっていたからだ。ずっと隠れて追ってくる彼を誘導し、人目につきにくい回廊奥の中庭に落ち着いてからようやく、瑠璃姫はその名を呼んだ。

 

「ソラン」

 

 背後の茂みからガサリと派手な音がした。次いで、

 

「なーんでぇ、気づいてたんならもっと早くそう言ってくれよな」

 無駄に疲れちまったぜ、と言うわりには元気な声。

 

「勝手にひとりで出歩くなと言っただろう」

「ひとりじゃねぇよ。ずっとお妃さまと一緒だっただろ?」

 

 琥珀色(こはくいろ)の目をした、十をひとつふたつ超えたくらいの少年が、悪びれもせずに堂々と現れて頭のうしろで手を組んだ。瑠璃姫はため息をつきながらソランに視線を合わせる。

 

「ついてくるなら最初からそう言いなさい。わたしたちだってべつにおまえを閉じ込めておきたいわけじゃない。言ってくれればそのための支度をするから。それと……何度も言うがわたしは王妃ではないよ」

 

 保護したときの痛ましさがすっかりなくなったのは嬉しいが、どうにも活発すぎるこの子どもに瑠璃姫はいささか手を焼いていた。

 

 とにかくじっとしていてくれない。一応自分の置かれた状況を理解してはいるようなのだが、どれだけ言い聞かせてもいつの間にか部屋から抜け出して、瑠璃姫の背後に潜んでいるのだ。

 

 ソランはまっすぐにこちらを見返したまま黙っていた。ややあってもう一度瑠璃姫が口を開こうとしたとき、純粋な瞳が斜陽にひときわ輝いた。

 

「でも心配だったんだ」

 

 思わず用意していた言葉を失う。

 

「お妃さまがずっと、すげぇ思いつめた顔してるから。そんで心配だったけど、邪魔するのも(わり)ぃかなと思って隠れて見てたんだ」

 

 いやだったなら、ごめん。そんなことを言われたら、叱ることなどできるはずもない。

 

「……ソラン」

「頼むから、なんかさせてよ」

 

 ソランの声が悲痛な響きを帯びた。

 

「おれさ、なんにもできねぇの、もういやなんだ。助けてもらうばっかりじゃ、いやなんだ。なんかしたい。じゃなきゃ、また……」

 

 そう言ってうつむき、自身の胸もとを強く握った。その服の下には、保護したときに彼が持っていた鍵が隠されている。瑠璃姫が革の紐を通して、首から下げられるようにしてやったものだ。

 

「ソラン」

 瑠璃姫はそっと、まだ細い両肩を抱き寄せた。

 

「おまえのせいではないよ」

 

 旧市街の花畑で彼の身に起きたことについては、すでに本人から聞いている。ソランを守ろうとして何者かに襲われたという少女のことも。

 

「おれが守ってやらなきゃいけなかったんだ。なのに、おれ……男のくせに」

「男のくせにとか、女のくせにとか、そういうふうに考えるのはやめたほうがいい。人は人だよ、ソラン。ただその人であるというだけだ。決められた役割なんてない」

 

 ソランの噛み殺したような呟きと、自身の口をついて出た言葉が苦い。瑠璃姫はひそかに奥歯を噛んだ。

 

 ソランは(しば)し黙り込んでいたが、やがて大きく息を吐いてから顔を上げた。どことなくぎこちない笑みは、無理やりに貼りつけたものだろう。いたずらっぽくひくつく鼻がいじらしい。

 

「お妃さまは意外と男らしいよな。あ、ごめん、こういうのもあんましよくない?」

「いや、まあ……」

 

 うまく返答できなかった。ソランはまたすこしの(あいだ)口を閉じると、考えながらといった様子で改めて開いた。

 

「まえに外で見かけたときはさ、全然そうは思わなかったんだ。こんだけ綺麗だしお妃さまだし、きっとふわっとしててやわらかくてポキッと折れる花みたいで、ナントカですわおほほほほ、ではゴキゲンヨウみたいな感じなんだと思ってた」

「なんだそれは気色悪いな」

「うん、いまとなってはそんなお妃さま想像もできねぇや。だからたぶんお妃さまの言うことは正しいんだと思う」

 

 琥珀色の目がこちらを向く。

 

「でも、理想の男や女を思い描くのも、そうなりたいって思うのも、間違っちゃいないと思うよ」

 

 胸を突かれる思いがした。

 

 瑠璃姫は思わずソランをじっと見つめた。相変わらずまっすぐに見返してくる双眸(そうぼう)には一点の曇りもない。

 

 ただ、しばらくそうしていると照れ臭そうに徐々に首が傾いた。

 

「あのさ、お妃さま。美人に見つめられるのって悪い気はしねぇんだけど、そういうのは旦那さん限定にしておいたほうがいいぜ……?」

 

 それでも目は逸らさない。

 

 今度はつい笑ってしまった。つられたのか、ソランも大口を開けて笑い出す。その緩みきった両頬を、瑠璃姫は軽くつまんで言った。

 

「おまえはいい男になるよ、ソラン」

 

  ソランがすかさず答える。

 

「気が合うね。おれもそう思う」

 

 生意気な鼻先を指で弾けば、ひときわ楽しげな声が響いた。

 

「さて、わたしにはまだやることがあるが、おまえは部屋に戻りなさい」

「おいおい、馬鹿なこと言っちゃぁいけねえや。やっと陽も落ちてきたとこだ、ゆっくり楽しもうぜぇー?」

 

 話しながら歩き出す。その言葉とは裏腹に、ソランも素直についてきていた。瑠璃姫は顔だけ振り向いてため息をつく。

 

「どこで覚えたんだ、そんな言い回し」

「旧市街」

 

 と当たり前に言われてはっとした。

 

「そうか……それは、そうだよな」

 

 無意識に視線を落とすと、それがいかにも気まずさを見せつける動作のように思えて、罪悪感が増した。

 

「……すまない」

「へ? なにが?」

 

 止まりそうになった瑠璃姫の足に、ソランの足が追いつき並ぶ。一度顔を見合わせてから、それぞれ前方に目を向けて歩き続けた。

 

「ひとりで心細いだろう。家族の安否も家の状態もわからぬというのに、こんなかたちで連れてきてしまって」

「あー……そりゃあ、ぜんぜん平気、なんつったら嘘になるけど」

 

 回廊の透かし飾りを抜けた斜陽が、その横顔に影を落とす。言葉を継いだのは、どこか大人びた声だった。

 

「おれさ、父ちゃんいないんだ。母ちゃんとはいつ離れ離れになってもいいように、お互い準備も覚悟もしてた。だから、まあ、それがいまだったってだけだな」

 

 ひどくあっさりと、言った。

 

「そんなもんだよ」

「ソラン……」

 

 そのときだった。

 

 長い影が、視界の端に映った。

 

 右斜め前方、角を曲がってゆっくりと近づいてくる影はふたつ。そのうちのひとつが、わずかな()だけ動きを止める。

 

 瑠璃姫はごく自然な動作で道をあけた。そのはずだった。裾に足が縺れて、柱に手をつこうとしたところで――その手を取られた。

 

「気をつけろ」

 

 新緑色の瞳が、すぐそこにあった。

 

 ベルナールはすぐに離れて行ってしまった。数歩うしろから追うセヴランが気遣わしげな視線とともに会釈を寄越す。瑠璃姫は直立したまま彼らの足音が過ぎるのを待った。背中を見送ることすら、しなかった。

 

「……王さまとなんかあったのか?」

 

 その気配が完全に去り、ソランからそう言われたときはじめて、

 

「いや、」

 

 彼の、向かった先に視線を移した。

 

「なにもないよ」

 

 風がだいぶ冷たくなってきた。後宮はもう、夜の支度をしているだろう。