七、あなたと離れて(2)

「……本気なの?」

 

 と声を尖らせたのはミミである。彼女が手をかけている寝台には祖父サイードがいて、上体だけを起こし、こちらを見ていた。

 

「ああ。ここを出ようと思う」

 瑠璃姫は努めておだやかに答える。

 

「なんでよ……だってアンタ、ベルナールさまは」

「承知している」

 と言えばミミは絶句した。

 

 あの夜から数日、表向きはふたりの関係に変化はなかった。

 

 互いに互いを避けていることは周囲にも気づかれていただろうが、これまでにも小さな(いさか)いは数えきれぬほどあったから、そうおかしな光景にも見えなかっただろう。といっても、いつもならこちらがちょっとしたことで一方的に腹を立て、追いかけてきたあちらの甘い言葉でうやむやにされるというような調子だったのだが。

 

 忘れられない。

 

「今夜出て行こうと思う」

 と手短に伝えたときの、

 

「好きにすればいい」

 と言った彼の目が、忘れられない。

 

「……ここにいてもわたしにできることはないからな。だったら外に出て、情報収集でもしたほうがみなのためになるかと思って」

 

 軽く(かぶり)を振って笑みを作り、険しい表情で固まっているミミに説明した。

 

 これは本心である。事実、現状では王都の外にまで人員を割く余裕がない。たとえば、先日事件を起こし、混乱に乗じて姿を消したアッキア・ナシアの残党を追うことすらままならないのだ。

 

「それに、個人的に気になることもある」

 

 沈黙のなかで続ける。ひとつは、あのダチュラという花のこと。そしてもうひとつは。

 

「お祖父さま」

 祖父の寝台の横に膝をつき、未だ光の衰えぬ瞳を見上げた。

 

「ご存じなら教えていただきたいのです。聖都アルク・アン・ジェにおられるという〈アウロラ殿下〉は……〈もうひとりの姫君〉なのでしょうか」

 

 ずっと聞けずにいた。王都陥落以来めっきり老け込み、寝込んでいた祖父とこうして話すのはひさしぶりだ。以前と変わらないのはその眼差しだけで、骨の形がはっきり浮き出るようになった腕はもう、剣はおろか筆すら満足に扱えなくなっている。

 

「……わからぬ」

 と、掠れながらも重みのある声が答えた。

 

「だが、その可能性は高い。アウロラ殿下がまだご健在であられたころ、かのお方を聖都までお送りになったはずだからな」

 

 そのまま静かに詳細を語る。瑠璃姫は頷きながらそれを聞いていた。

 

 ある程度は想像できたことだった。アウロラが最期に言おうとした言葉の続きを、考えなかった日はない。

 

『……アルク……アン・ジェ、に……』

 

 そう、彼女は言ったのだ。かすかな、本当にかすかな声で、けれど、たしかに。

 

 これではっきりした。彼女が今際(いまわ)のきわに想ったのは、この手に託そうとしたのは、いまこの瞬間も様々な思惑の渦のなかにいるであろう、彼女の半身だった。

 

 ならば、行ってたしかめねばなるまい。

 聖都アルク・アン・ジェへ。

 

「教えてください。その方のお名前は、なんとおっしゃるのですか」

 

 祖父の手をそっと握った。

 

 その名は、生母であるウイルエーリアですら知らないと言っていたものだ。おそらく、祖父の判断で伏せられていたのだろう。それを聞き出すのは多少気が引けたが、しかし知らなければたしかめようもない。

 

 祖父はしばらく黙っていた。瑠璃姫の手の下で、乾いた指がかすかに動いた。

 

 やがてその口から静かに(つむ)がれたのは、

 

「……陛下は美しいものを愛しておられた」

 

 という、答えにならない返答だった。

 

「たとえば輝く星(シリウス)、たとえば夜の深い闇(ダリウス)、たとえば人を守る強さ(アレクシス)、たとえば曙の空に見る夢(アウロラ)

 

 言葉尻が、わずかに揺れる。

 

 そこで祖父は一拍置いたが、口を挟むことはできなかった。ゆっくりとひとつ瞬きをしてから、祖父は慎重に声を発した。

 

夕焼けの虹(リュシエラ)

 

 ひどく眩しい言葉だった。それが、かのひとの名前なのだと理解するのに、いささか時間を要した。

 

「リュシエラ、殿下」

「そうだ。陛下はすべての御子に、ご自分の愛するものの名をお与えになった」

 

 それきりまた黙り込んでしまった祖父に、なんと言えばよいのか瑠璃姫にはわからない。ただ、強く、祖父の後悔を感じた。あるいはそれは、亡きイシュメル王の思いだったのかもしれない。

 

 なぜ人は、こんなにも大切なことを伝えられずに終わるのだろう。

 

「……もし、お会いできたら」

 

 会いたいと思った。

 

「わたしが必ず、それをリュシエラ殿下にお伝えいたします」

 

 もういない彼らに、会って伝えたいと思った。

 

 瑠璃姫はイシュメル王のことをよく知らない。だからこれは、ひょっとしたら祖父の理想で、嘘なのかもしれない。けれど信じたいと、信じてほしいと、強く願った。

 

 祖父は無言のまま、頷いた。

 

「ち、ちょっと、おじいちゃん!」

 と、それまで静かに立っていたミミが動く。

 

「なに納得してんのさ! 止めなよ! この子、本気で出ていくつもりなんだよ!?」


 祖父はミミに肩を掴まれながら、

 

「言って聞くような孫ではない」


 と冷静に答える。そのやり取りに思わず笑ってしまった。

 

「よくおわかりで」

「そのあたりは父親似だな」

 

 そう言う祖父の目が、わずかに細められていた。

 

 幼いころに見た、まるで(かたき)に向けるような目で父と睨み合っていた姿からは想像もつかない。祖父もまた、きっと伝えられなかったひとなのだ。叶うことならば父のことも探し出して、この顔を見せてやりたい。

 

 そう考えたら、やることはたくさんありそうだった。

 

「ミミ。すまないが、お祖父さまを頼む」

「そりゃ、かまわないけど……」

 

 なにかを続けようとしてしばらく口を開いていたミミは、結局そのままうつむいてしまった。その力なく下がった肩に、

 

「連絡はするよ。そもそも情報収集が目的だからな」

 

 と明るく声をかける。的外れなことを言っているという自覚はある。だが、彼女の言わんとすることにうまく答えられる自信がなかった。

 

 うつむいたままなにも言わないミミに胸のうちで感謝して、祖父に軽く頭を下げてから、扉に手をかけた。出立までもうあまり時間がない。ゆっくりはしていられない。

 

 そうして、部屋を出ようとしたときである。

 

「ねえ」

 と、控えめに呼びとめる声があった。ミミの声だった。

 

「ひとつだけ聞いてもいいかい? アンタ、ベルナールさまのこと、きらいになったわけじゃないんだよね?」

 

 彼女にしてはずいぶんと歯切れの悪い問い方である。それに対して瑠璃姫は、振り返らずに答えた。

 

「ああ――」

 

 そのあとについ、続けてしまったのは、

 

「――愛している」

 

 まぎれもない本心で、素直な言葉だった。