二、王女の秘密(1)

 その日、王国は歓喜に沸いた。


 王都アヴァロンでは民衆に無償で食事が振る舞われ、罪人は赦され、噴水からは酒があふれたという。六一二年、四月二十七日のことである。


 夜明けとともに生まれた王女は「曙の乙女」を意味する「アウロラ」という名と、「聖女エスタスの福音」を意味する「ディオーリエスタス」という神授名(生後すぐに行われる卜占によって授けられる名で、ウルズ王国ではそのままミドルネームとして用いられることが多かった)を与えられ、国民全員から惜しみない祝福を受けた。

 

 と、多くの書物は語る。ところが、実際にはそう幸福な人生のはじまりでもなかったようである。彼女にもまた、エヴェルイート同様、重大な秘密があったのである。


 当時の彼らの宗教は、一四〇八年の大変革以来ややいきすぎた弾圧を受け悖教(はいきょう)と呼ばれているが、「ふたつにわかれるもの」を嫌った。人間は罪深きものであり、その罪ゆえに性によって本来持つべき能力を二分され、また同時にまったくの善であるべき精神から分裂して悪が生まれたという考えが根底にあったからである。男性のようにも女性のようにも見える人々が神聖視されたのはそのためである。


 その考えに則っていうのであれば、エヴェルイートは限りなく完全に近い理想形であり、アウロラ王女は忌むべき罪の権化であった。王女はその魂をふたつの体に分けて生まれてきたのである。


 王后の腹から出た双子を目にしたときの混乱は凄まじいものであったろうが、どうやら王の対応は迅速だったようである。王后が泣き叫んで気を失っている間に、真実は闇に葬られた。だれにも知られぬうちに「もうひとりの王女」はその存在を抹消されたのだ。

 

 出産に立ち会った医術師や女官たちは「王后を危険に晒したため」としてただちに牢に入れられ、そのことごとくが獄中で死を迎えている。裁判を受けることはおろか、正式な処刑によって生涯を終えることさえ許されなかったようである。


 そんな不祥事を起こしたとなれば王后も抹殺されそうなものだが、彼女は教会の重鎮の血縁者であったために難を逃れた。自国のみならず、周辺諸国に対しても強大な影響力を持つ教会との繋がりは、王としては手放し難かったのだろう。

 

 だからこそ、王女の秘密はなんとしても隠し通さねばならなかった。そうでなくとも、王家に双子が生まれたなどと知れれば、国そのものの存続すら危うくなる。殺されこそしなかったものの、もともと控えめだった王后は出産後、離宮に篭り、ほとんど公の場には姿を現さなくなった。事実上の軟禁である。


 アウロラはそんな母とともに過ごすことを許されなかった。

 

 彼女の生母ウイルエーリアは王の正室であり、アウロラは表向きその唯一の子であった。先述のとおり、この国では男女の別なく正室の子から順に上位の王位継承権が与えられる。アウロラが生まれたときすでに王子は三人いたが、いずれも側室の子だった。つまり、彼女は末子でありながら第一王位継承者だったわけである。それにふさわしい教育を受けねばならなかった。

 

 しかし、もともと王后ウイルエーリアとは夫婦の関係が希薄であった父王は、その子であるアウロラに対しても冷淡で、自ら教育しようとはしなかった。といっても、王は基本的にすべての子どもたちと距離を置いていたといわれているから、アウロラが特別恵まれない子だったというわけでもなかったようである。

 

 まあ、そんな環境だったので、彼女は両親とはほとんど関わることなく、多くの教育係によって次代の王に相応しい女性となるべく育てられた。

 

 その教育係の筆頭格であったのが、サイード=オルラン=ジェ=ブロウト、エヴェルイートの父方の祖父である。


 サイードが息子ヴェンデルに家督を譲り、国王のそばに仕えるようになってから久しい。

 

 官職は受けていない。いつの時代からか、国王に指名された男子をブロウト家から差し出すことが両家間のルールとなっていたようなのだが、そのようにして王都に送られた男子は、王族と同じように王宮内に住むことを許される代わりに決して官職は与えられず、国王のそば近くに在りながら宮廷においてなんの権限も持たなかった。いうなればただの「客人」だ。それも国王の監視つきの、である。

 

 そのためこの特殊なルールを利用して、力をつけすぎたブロウト家の者を召喚し各種権限を取り上げた国王もいた。逆にブロウト家の者は国王やその家族の信頼を得られれば、あくまでも個人的にではあるが身辺の世話を任されたり、相談役として重宝されたりして間接的に(まつりごと)に関わることができる。それが行き過ぎた場合には処罰されるわけで、そうして両家は均衡を保ってきたのであった。

 

 そんな微妙な立場にあって、サイードはもともと良好だった国王との関係をよりたしかなものとし、国王の子どもたち全員の教育係となっていた。そのサイードとともに、やはり官職にはつかず、それでいて国王一家の一番近くで五年もの歳月を過ごした者がいる。

 

 孫のエヴェルイートである。

 

 

 

 

 


 王女誕生の知らせが届いてから数日後、エヴェルイートははじめて祖父と対面した。祖父がカルタレスに帰ってきたのは十数年ぶりだという。それは一時的なもので、監視役ともいえる官吏(かんり)数名を伴っての帰還だったが、カルタレス城ではもとの主人を盛大に歓迎した。ただ父ヴェンデルだけが、眉間に皺を寄せて険悪な空気を漂わせていた。


「お久しゅうござる、父上。ご息災であられたか」
「この老体、まだ朽ちるほど衰えてはおらぬのでな」
「それは重畳(ちょうじょう)


 うっすらと笑みすら浮かべながら、父の言葉の響きはひどく刺々しい。思えば、祖父の話を父から聞いたことは一度もなかった。


「それで、どのようなご用件でおいでですか。まさか孫の顔を見に、などとはあなたは申されますまい」
「いや、突然押しかけて当主には申し訳ない。陛下のご用命でな」
「……国王陛下の?」
「なに、内親王殿下のご生誕祝いに、この地の品をいくつか頼まれただけのこと。当主の手を煩わせるようなことではない」


 そう言うと祖父は視線を巡らせ、エヴェルイートのほうを見て興味深げに呟いた。


「ほう、ずいぶんと馴染んだものだ」


 わけがわからずエヴェルイートは首を傾げたが、


「イージアス、下がっていなさい」

 

 という父の言葉で、祖父が自分ではなくそのうしろにいるイージアスを見ていたのだと気づいた。

 

 祖父の視線を受けたイージアスは、威嚇する獣のように体を強張らせている。その口ぶりからすると、どうやら祖父はイージアスと面識があるらしい。ますますイージアスの境遇がわからなくなったが、そんなことはエヴェルイートにとってはどうでもよかった。祖父の視線からイージアスを守るように、体の向きを変える。背後に感じる息づかいが、わずかに落ち着いたようだ。


「なるほど、おぬしならば適任だとは思っていたが、こうもうまく手懐けるとはな」
 祖父が満足げに頷き、


「イージアスはもはや我が子も同然です。手懐ける、という言葉は、親子の間には不適切ですな」
 父はいっそう眉を顰めた。


「相変わらず甘いことを言う。まあ、よい。これならば陛下もお喜びであろう」
「……まさかその祝いの品とやらに、イージアスの身柄が含まれているとでも?」


 それを聞いたエヴェルイートは、はっとしてイージアスの腕を掴んだ。イージアスの事情はなにも知らない。知らないが、いま家族同然に暮らしているこの少年を、商品かなにかのように扱われては堪らない。たとえそれが国王であってもだ。エヴェルイートは、もし祖父が無理にイージアスを連れ出そうとしたならば、その腕に噛みついてでも兄弟を逃がすつもりだった。ところが、その気勢と緊張はすぐに行き場を失うこととなった。


「いや、そのようなことは申さぬ」
 と、祖父があっさり否定したからである。


「それに関しては、時期尚早というものだ。あちらの調べもまだ済んでおらぬのでな。それより、陛下が早急にお望みのものがある」


 祖父は一度言葉を切り、表情を改めた。その様は王宮からの使者そのものだった。


「このたびお生まれになったアウロラ内親王殿下は、いずれ玉座を継がれるお方である。その夫となる者は、当然王配(おうはい)としてこの国を背負うことになる。ではその座にだれが相応しいか。これは国王陛下、そして我が国にとってきわめて重要な問題だ。そこで、陛下が直々に候補者の技倆(ぎりょう)をお試しになる」


 聞いていた父の顔色が変わった。祖父は静かな表情のまま、懐から羊皮紙の書状を取り出し広げてみせた。


「ブロウト家当主ヴェンデルの子、エヴェルイート=レンスは、速やかに参内されたし」


 書状には、竜を象った王家の紋章がはっきりと押印されていた。


「お待ちください、それこそ時期尚早だ! この子は……エヴェルイートはまだ七つですぞ!」
「なにを言う、珍しい話ではあるまい。私やおぬしにだって、その年ごろにはもう縁談が山とあったわ」


「しかし……内親王殿下はまだお生まれになったばかりではありませぬか、それで縁談を進めたとて……第一、このような幼い子どもでは技倆もなにも測れますまい」
「だからこそ、殿下に見合う若者になるよう、いまのうちに教育を施すのではないか」


「ではこの子の意思は! 本人に選択の自由はないのですか!」
「なにが不満だ! 我らが主が、国王陛下が、このブロウト家の者を次期王配の候補としてお選びくださったのだぞ! 貴様はなんぞ陛下の治世に不満でもあるのか。申してみよ。ヴェンデル卿、申してみよ!」


 その場が騒然となった。たしかに父の発言は、反逆の意ありと捉えられてもおかしくない。しかも、ここには祖父とともにやってきた官吏たちも同席しているのだ。居合わせた使用人たちの顔もすっかり青ざめている。本来喜ぶべきことなのだ。それがなぜこうなったのか、普段は堂々としている父をここまで取り乱させたものはなんなのか、エヴェルイートにはわかっていた。


 はじめてこの身を、忌まわしいと思った。


 いっそ言ってしまおうか。すべて告白して、謝罪して、泣いてすがれば、父は救われるかもしれない。どうせみなの期待に応えることもできぬ、中途半端なこの身など。


 エヴェルイートが震えながら口を開きかけた、そのときだった。


「不満などございません」


 凛とした声が響いた。母の声だった。


 水を打ったように静まりかえった室内で、かすかな衣擦れの音だけが聞こえる。ゆっくりと祖父の前に歩み出た母は、優雅に腰を折った。


「見苦しいところをお見せいたしました」


 これにはさすがに驚いた様子の祖父に頭を下げたまま、母は続ける。


「国王陛下のご信頼を裏切るようなことはいたしませぬ。わたくしも夫も、これ以上ない喜びに打ち震えております。ただ、突然のことにいささか動揺いたしました。国王陛下が内親王殿下を大切に思われるように、わたくしたち夫婦にとっても我が子は手放し難いものなのです。親愛なる国王陛下には、きっとご理解いただけましょう。ですが、先ほどの非礼、許されるものではございません」


「アリアンロッド殿下……」


 思わず、といった様子で「殿下」という敬称を口にした祖父の言葉を、母はやんわりと、しかし毅然と遮った。


「わたくしは、ブロウト家のヴェンデルが妻、アリアンロッド。夫の非礼は、すなわちそれを正せぬ妻の非でございます。国王陛下には、どうぞそのようにご報告を。必ず夫婦ともども罰をお与えくださいますよう」


 再びざわめきが起こった。祖父は黙っていた。母はなお、頭を下げたままである。だれよりも低い姿勢を保ちながら、この場の支配者は母なのであった。


 国王が母には簡単に手を出せないということを、エヴェルイートはもう理解している。当然、母も自覚しているはずだ。ただ、実際にその立場を利用する母の姿を見るのは、哀しかった。


 結局、勇気ある官吏が座をとりなし、父の失言は不問となった。

 

 わずか十年ほどまえの王位をめぐる争いと、それによる混乱を知る官吏たちにしてみれば、その火種となるようなことは早々に揉み消してしまいたいものなのだろう。ようやく正妃に子が生まれ、先に王子たちを産んでいた第二妃、第三妃もすこしはおとなしくなろうかというときだ。余計な心配ごとはなくし、なおかつ王太子となるべき王女に適当な伴侶を用意して早くその地位を安定させたい、そんな官吏たちの声が聞こえてくるようだった。

 

 たしかに、エヴェルイートは最適だった。その身に抱える大きな秘密を除けば。


 断るわけにはいかなかった。その日、エヴェルイートの参内が決まった。


 少人数であれば使用人の同行は許されるとのことで、医術の心得もある侍女ウリシェがともに王宮へ向かうことになった。生まれたときから教育係としてそばにいて、もちろんエヴェルイートの事情もよく理解してくれている彼女が同行するというのは心強かった。


 出立の朝、母はエヴェルイートを強く抱きしめた。エヴェルイートは努めて明るく、
「それでは、行って参ります」
 と笑顔を向けた。


 王都アヴァロンまではずいぶんとのんびりした旅で、その間エヴェルイートは何度も込み上げる吐き気に耐えた。そしてそのたびに笑顔で誤魔化すことで、王都の巨大な城壁が見えたころにはすっかり「次期王配候補者であるブロウト家嫡男」を作り上げていた。だからだろうか。謁見の間で伯父である国王と相見えたとき、


「聞きしに勝る立派な若者ではないか。見よ、この知性のにじみ出るような顔容(かんばせ)を! 瞳の静かで澄んでいるのが(はなは)だよい」


 と絶賛されたのは。


「身に余る光栄でございます、陛下」


 返した声は震えていなかっただろうか。頬は引きつっていなかっただろうか。


 短い会話のあと、謁見の間を辞して長い廊下を歩き、たどり着いた客室の扉を閉めた瞬間、エヴェルイートはその場に頽れ嘔吐した。ひとしきり吐いて、吐くものもなくなったらなんだかおかしくて、声をあげて笑った。それからはもう、吐き気を感じることもなかった。