六、思惑(2)

 ベルナールの肩を借りて外に出たエヴェルイートは、絶句した。

 

 瓦礫の山に、なにかの焼けた跡。鈍色(にびいろ)の空から吹く風は生ぬるく、焦げ臭さと得体の知れない異臭を運んでくる。点々と、赤黒い染み。瓦礫を掘り起こす人たちの横に、いくつか、布をかけられたものが転がっている。それをぼんやりと眺めている間にも、新たな遺体が引きずり出されていた。


 咄嗟に口もとをおさえても、胃の底から込み上げる不快感は止められなかった。ベルナールが、エヴェルイートを支えたまま膝を折る。蹲るような姿勢になって、エヴェルイートは全部吐き出した。すでに体力は限界に近い。視界もふらふらと揺れているが、無言でベルナールを促した。ベルナールはもうなにも言わず、ゆっくりと立ち上がる。


 歩く。あれは、幼いころによじ登って怒られた壁の残骸だろうか。この石像、よく八つ当たりしていたやつだ。あ、懐かしい、この落書き、消えていなかったんだ。あれも、それも。目に見えるものすべてをたしかに覚えているのに、その姿は、記憶のなかとはまるで違っていた。この光景を信じたくはない。だが視線を向けた先には必ず、竜の爪痕や、散った羽根。ならばこれが、現実なのだ。


 やがてたどり着いた先で、エヴェルイートは見つけた。割れた、分厚い木の鎧戸。


 そこから見える景色が好きだった。そこからだれかを呼ぶのが好きだった。だれかに呼ばれて、その窓を開け放つ瞬間が、好きだった。いまはただ、なんの役割も持たない木片として、エヴェルイートの足元に散らばっている。自室は、面影もないくらいに破壊されていた。


 ベルナールは、ここに来た目的を察したのだろう、そっとエヴェルイートを座らせると、言った。


「さて、なにを探せばよいのだ?」


 余計なことをするなと言いたいところだが、座っているだけでもけっこうつらい。しかたなく、いまはその言葉に甘えることにした。


「……箱を。両手に収まるくらいの、小さな箱だ」
「心得た」


 ひとつひとつ、ベルナールの手は丁寧に瓦礫を拾って、ときおり見つかるエヴェルイートの私物を顔の高さまで持ち上げてみせる。エヴェルイートはそのたびに首を横に振って、違う、とか、それはいい、と伝えた。もともと、ものを多く持つほうではない。宝飾品にも興味はないし、そういう意味で価値のあるものはほとんどない。身分のわりに質素な持ちもののなかで、すこし毛色の違うその箱は、それほど時間を必要とせずに見つかった。


「これか?」


 銀製の、ごくシンプルなデザインの箱が、曇天の下で鈍く光っている。


「……ああ」


 それは、そのなかに仕舞ってあるもののために、特別に作らせた箱だった。余計な装飾はいらないからとにかく頑丈にしてほしいと求めたときには職人に苦笑されたものだが、その判断は間違っていなかったようだ。この惨状にあって、その箱だけはなにごともなかったかのような顔をしている。といっても装飾を省いたのは、そういう実用性だけを重視した結果というわけでもない。そのほうが相応しいと思ったからだ。そういう、ひとだった。


 ベルナールの手から箱を受け取り、エヴェルイートは静かに蓋を開けた。光沢のある絹に、それは包まれている。そっと手に取って、包みを開いた。


 無事だった。象牙の肌に、花模様の彫刻と瑠璃玉を飾った櫛は、あの日と同じ、やさしい姿をしていた。


「これは、見事な逸品だな」


 覗き込んでいたベルナールが感嘆の声をあげた。


「……母の形見だ」


 言葉にして出すと、実感する。本当にもう、これしか残っていないのだ、と。


 なぜ、こんなことになったのだろう。なぜ。なにが原因で。だれの、せいで?


 そのとき浮かんだ顔を、エヴェルイートは必死に打ち消した。違う。彼のせいではない。もし彼の企みだったのだとしたら、あんな顔をするわけがない。でも、だったら。なぜ彼は……イージアスは、竜を操ることができたのだ。なぜその事実を隠していたのだ。それができるなら、なぜもっと早く、こうなるまえに。


 エヴェルイートは、自分の思考に絶望した。しかし、止められなかった。それぞれ、事情がある。自分はそれをなにも知らない。だからなにも言う権利はないのだ。わかっている。わかっているが、どうしようもなかった。人が人に敵意を向けるとき、そこに理屈はないのだと知った。


「エヴェルイートどの」
「なんだ」


 気遣わしげな、ベルナールの声が煩わしい。


「……戻ろう」
「戻る?」


 どこへ。どうやって。


「風が変わった。じき雨になる」


 雨に打たれたら、この淀んだ感情も流れてゆくのだろうか。この景色も洗われて、もとの状態に戻るのだろうか。


「そうか、じゃあ、好都合だな」
「なにを言っている。熱も上がってきたのだろう」
「ならここで冷やす」
「馬鹿。死ぬぞ」


 ああ、そうか。


「……それもいいな」


 瞬間、ベルナールの顔が憤怒に歪んだ。胸ぐらを掴まれてガクンと頭が上向き、視界に振り上げられた手が映ったが、エヴェルイートは動じなかった。疲れきった目を、閉じた。


 そのときだった。


「エヴェルイート!」


 叫ぶように、名を呼ばれた。ベルナールではない。従兄のスハイルでもない。父の声でもない。もっと若い、男の声だ。だとしたら、エヴェルイートを呼び捨てにできるような者は、ひとりしかいない。


 イージアス。


 駆けてくるそのひとを見た。ベルナールの手を振りほどいた。立ち上がろうとして、また転んだ。その間に、足音は近づく。靴が見えた。顔を上げる。最初、その顔がよく見えなかった。


 ずいぶん時間をかけて焦点を合わせたとき、エヴェルイートは息を呑んだ。


「久しいな、エヴェルイート」


 そのひとは膝を折り、エヴェルイートの手を取った。知的で落ち着いた眼差しが、労わるように注がれる。かつて、その気品あふれる佇まいを何度も目で追った。そのくせ、何度も避けた。逃げてきた。


 いま、目のまえにして、自覚する。その想いはまだ、消えてはいない。


「……アレクシス殿下?」


 火照った頬を冷やすように、雨が降りはじめた。人が人に好意を寄せるときもまた、そこに理屈はないのである。