一、誕生(3)

 母の望むように生きることは難しかった。それに気づくきっかけとなったのは、ある少年との出会いであった。五歳の晩冬のことである。

 

 父ヴェンデルに連れられてやってきたその少年は、むっつりとした顔を堂々と上げていた。睨みつけるような目をまっすぐに向けられても、エヴェルイートは動じなかった。単純に、そういう目を知らなかったからである。

 

 儚げな母に似たためか、エヴェルイートはあまり丈夫ではない。加えて秘密を抱えていたせいで積極的に城外に出ることのなかったエヴェルイートは、当たり前に愛情を注いでくれる人々の目しか見たことがなかった。そして同年代の少年と向かい合うこともまた、はじめてのことだったのである。

 

「ゆえあって、当家で預かることになった」

 

 とだけ、父は言った。エヴェルイートもそれ以上のことを聞こうとはしなかった。これは生涯変わることがなかったのだが、このやんごとないひとは事情や背景を気にせず、そのひと個人に興味を持つ傾向があった。

 

「名前は?」

 

 と訊くと、少年は

 

「イージアス」

 

 と、ひどく簡潔に答えた。その反応はエヴェルイートにとっておもしろいもので、興味を惹かれるには充分だった。

 

 さて、鋭い読者諸氏はもうお気づきであろうが、この少年こそがのちの英雄でありアウロラ女王の「精神の夫」、イージアス=アゼント=ジェ=ヴァールである。実をいうと、彼がブロウト家にやって来たのは国家絡みの深い事情があったのだが、そんなことは幼いエヴェルイートには関係のないことであった。

 

「おまえ、いくつなの」

「……このまえ、五つになりました」

「じゃあいっしょだね」

「そうですか」

 

 会話は続かない。が、エヴェルイートは楽しんでいた。対してイージアスは、相変わらずむっつりしたままである。

 

年齢(とし)は同じだが、エヴェルイートのほうがふた月ほど先輩ということになるな」

 と続けたのは父だ。

 

「せんぱい?」

「そうだ。だからわからないことは、おまえが教えてやりなさい」

 

 これにエヴェルイートは感動した。うまく言葉が出ず、ただ何度も頷いた。父はそれを見てから、イージアスに目を向ける。

 

「遠慮はいらぬ。我が家と思い、自由に過ごしなさい。長く住むことになるのだからね」

 

 父の言葉にイージアスは無言で頭を下げた。エヴェルイートは目を輝かせて、父に尋ねた。

 

「イージアスはこれからずっといっしょですか?」

「まあ、少なくとも数年はそうなるであろうな」

「では、わたしの弟ですね」

「まあ……家族の一員とはいえるかな」

「聞いた? イージアス、わたしたち兄弟だ!」

 

 言いながら手を取ると、イージアスは迷惑だと言わんばかりの顔を隠そうともしなかった。その様子を見守っていた父がため息をつく。

 

「それはいいが、エヴェルイート、おまえは兄弟に名も名乗らぬつもりかな」

 

 言われてはじめて、エヴェルイートは自己紹介を忘れていたことに気づいたのだった。

 

 そのような出会いがあってからひと月、結局イージアスとはほとんど顔を合わせることもなく過ごした。父が家族だと認めたにも関わらず、イージアスは使用人の部屋に住み、様々な雑務をこなしているようだった。愛想はないが、その働きぶりは使用人たちの間でも評判らしい。それがエヴェルイートにはおもしろくない。一度、イージアスの真似をしようとしたら、必死の形相の使用人たちに止められた。なぜ止めるのかと訊くと、返ってきたのは「身分が違うから」というような答えだった。

 

 これがわからなかった。エヴェルイートから見れば「弟」であるイージアスはもちろん、エリスやウリシェ、そして他の使用人たちもみな同様に家族のようなものだ。肌や目や髪の色だって変わらないのに、いったいなにが違うというのか。

 

 しかしその答えは、じきにわかることとなった。

 

 ある日、父ヴェンデルに呼ばれて執務室へ行くと、どうやら同じように呼ばれたらしいイージアスが露骨にいやそうな顔をして立っていた。エヴェルイートは喜んだ。

 

「イージアス、やっと会えた! なにか困ったことはない?」

「いえ、べつに」

「もしかして、えんりょしているの? それならいらないよ、だってわたしたちは兄弟だ」

「……べつに」

 

 イージアスの反応はやはりおもしろい。そのまま会話を続けたかったが、父がひとつ咳払いをしたのでエヴェルイートはあわてて姿勢を正した。

 

「そう、遠慮することはないのだよ、イージアス」

 父がイージアスを見ながら言った。

 

「だから、遠慮せずにいやだと言いました」

 イージアスが答える。なんの話だかさっぱりわからない。

 

「では、やはり家庭教師をつけるしかないかな」

「その必要もありません」

「そうか、しかたがないな……エヴェルイート、おまえ、イージアスに学問を教えてやってくれるか」

「はぁ!?」

 

 と声を上げたのはイージアスである。はじめて見る表情をしていた。エヴェルイートも困惑して、父を見た。

 

「いいですけど……どうしてですか、父上?」

「いやなに、イージアスに翰林院(がっこう)に通うよう勧めたのだが、いやだと言うのでね、では家庭教師をつけようかと思ったら、それもいやだと言う。そうなるともう、すでに家庭教師に学んでいるおまえから、間接的にでも学んでもらうしかなかろうと」

「だから、そもそもそんなの必要ないって言っているんです! わかっているくせに!」

 

 父の言葉を遮って、イージアスが訴える。

 

「よくわかっているとも。おぬしを預かった以上、立派なウルズ良民として育てねばならぬとな。これは私の義務だ」

 

 父の声色がすこし変わって、イージアスは押し黙った。イージアスの事情はよく知らないが、帰るべき場所を失ったのだと聞いた。たぶん、いろいろと複雑な思いがあるのだろう。

 

「なあ、イージアス。不本意だろうが、これはいずれおぬしの望みを叶える糧ともなり得るのだよ。一年でそこまで言葉を覚えたおぬしのことだ、もっと多くを学べば、我々を出し抜く日も近いとは思わぬか」

 

 再び声色を変えた父が、イージアスの肩を叩く。イージアスはため息をついてから、父を睨みつけた。

 

「あなたたちは本当に理解できない」

「なに、これから互いに理解していけばよいだけのことだ。さて、そうと決まれば手続きをしなくては。翰林院に連絡を入れるとしよう」

 

 イージアスの言動のどこを受けて肯定と捉えたのかわからないが、父は満足げに頷いた。イージアスも言い返さないところを見ると、どうやら父の解釈は正しいらしい。エヴェルイートにはさっぱりわからない。ただひとつわかったことは、意外とイージアスの感情表現が豊かだということだ。笑ったりすることも、あるのだろうか。

 

 もっと知りたいと思った。もっと一緒にいて、いろいろなことを見ていきたいと思った。一緒に翰林院に入れば、それが叶うのではないか。そして父はそのために、自分を呼んだのではないか。

 

 エヴェルイートは、父がその話を切り出すのを待っていた。ところが、まばたきを十回しても二十回しても、一向に父の目はこちらを見ない。ついにはそのまま仕事に取りかかろうとしたので、エヴェルイートはいささか拍子抜けした声で尋ねた。

 

「あの、父上、わたしは?」

「ああ、母上がお茶にしようと言っていたよ。私もすこし片づけたら行くから、先に行っておいで」

「それだけ?」

「そういえば、エリスもおまえを探していたな。またなにかしたのか」

「そうではなくて!」

 

 父の執務机に手をついて、叫んだ。

 

「わたしも! わたしもがっこうに行かせてください!」

 

 すると父は書類をまとめながら、

 

「そう言うと思っていた」

 

 静かに笑った。隣では、イージアスが頭を抱えていた。こうしてふたりは、この春からともに学ぶことになった。