五、失われたもの(1)

 パキン、とどこかで音がした。

 

 その音で、「瑠璃姫」は我に返った。いま、自分はなにをしていたのだろう。まるで夢のなかにいたようで、判然としない。この感じには覚えがある。

 

 ……また、「彼」のしわざだろうか。

 

 いつの間にか、目のまえに少女がひとり、立っていた。いまにも泣き出しそうなその顔は、はじめて間近で見たため個人を特定する判断材料にはならないが、彼女が身につけた華麗なドレスは他のものと間違えようもない。

 

 王女さま。

 

 そうだ、この方は「アウロラ内親王殿下」だ。「旦那さま」から聞いている。今回、この催しに誘ってくれた方。だが殿方に混じって狩猟に参加していたはずのその方が、目のまえにおられる理由がわからない。

 

 瑠璃姫は、数秒まえまでのことを必死に思い出そうとしていた。たしか、殿方たちが野を駆ける様子を、貴婦人たちと一緒に眺めていたはずだ。あの方が素敵だとか、でもあの方のほうが家柄がよいだとか、そんな話を聞きながら。

 

 瑠璃姫には、そのあたりのことはよくわからなかった。ただ、ずいぶん目立つひとがいるな、と思っていた。青みを帯びた黒髪のなかに、ひとりだけ眩しい光を放つ金髪。なぜだかなつかしいその色彩をじっと見つめていたら、親切な夫人が「ヴェクセン帝国のベルナール大公殿下ですわ」と教えてくれた。

 

 ベルナール。

 

 その名が、なにか、引っかかった。瑠璃姫のなかで、「彼」が反応したような気がした。

 

 その胸のざわめきに気を取られている間に、悲鳴が上がった。みなが指差すほうを見ると、暴走する馬に振り落とされそうになっている少女がいた。「アウロラ殿下!」という叫び声に、ぞわりと肌が粟立って。それから。

 

 それから?

 

 やはり、思い出せない。なにがあって、こうして王女を見上げているのか。

 

 いっそご本人に訊いてみるべきだろうか。いや、さすがにそれはよくないだろう。ならどうするべきかと自分に問いかけてみても、返事はない。「彼」はもう眠ってしまったようだ。いつものことだから、期待もしていなかったが。

 

 どうしよう。

 

 本当に困り果てたところで、馬蹄(ばてい)(とどろ)きが聞こえた。振り向くと、大勢の人が馬で駆けてくるのが見える。そのなかに庇護者の姿を見つけて、瑠璃姫はほっと息をついた。

 

 よかった。これでなんとかなるだろう。

 

 ところがそれもつかの間、その群れのなかからひとつの騎影が飛び出してきたとき、瑠璃姫は呼吸を忘れた。

 

 風に靡く金髪。だれよりも目立つそのひと。切羽詰まった表情でこちらに迫りながら、なにかを訴えている。

 

 いや……呼んでいる。

 

 なにを。

 

 だれの、名を。

 

 それをたしかめようとしたら、急に視界が白く染まった。

 パキン、とどこかで音がした。

 

 その瞬間、耐え難い頭痛に襲われて、瑠璃姫は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。

 

 どうやら、寝台に横たえられているらしい。まだすこし頭が痛む。ゆっくりと体を起こそうとすると、肩にだれかの腕が回された。

 

「……旦那さま」

 

 すぐそばに、心配そうにこちらを覗き込む、老紳士の顔があった。瑠璃姫の庇護者である彼は、サイードという、たいへん高貴なひとだと聞いている。

 

「気分はどうだ」

「悪くはありません。わたくしは……また倒れたのでしょうか」

「そうだ」

「それは、ご迷惑をおかけいたしました。もうひとつお訊きしても?」

「構わぬ」

「ここは……」

 

 どこなのでしょう、と言うまえに、答えが返ってきた。

 

「私の部屋だ」

 

 知らない声だった。視線を移す。そこで、はっと息を呑んだ。

 

 部屋の中央、毛皮が敷かれた椅子に、青年が腰掛けている。豪奢な金髪と新緑色に輝く瞳が眩しく、両耳には紅玉(ルビー)の雫が揺れていた。無駄なく引き締まった体躯をやや緊張させ、手と足を組むその青年の名を、瑠璃姫はもう知っている。

 

 青年は一度深く呼吸をしたあと、立ち上がってこちらに歩いてきた。そして、静かに問う。

 

「私が、わかるか」

「……ヴェクセン帝国の、ベルナール殿下でいらっしゃいますね。本日のご活躍、拝見しました」

 

 間違えてはいないはずだが、青年は瑠璃姫の言葉に衝撃を受けたようだった。目を伏せ、奥歯を噛みしめながら、押し潰したような声で言う。

 

「……本当に、覚えていないのだな」

 

 それで、なんとなく、わかった。

 

「殿下は、わたくしをご存知なのですね。……申し訳ありません。忘れてしまって」

 

 瑠璃姫には、ここ一年以外の記憶が、ない。

 

 それは瑠璃姫が「生まれて」からまだ一年ほどしか経っていないからで、厳密にいうと「忘れてしまった」というのとはすこし違う。ただ、瑠璃姫が「生まれる」まえのことを知っている人から見ればそれは「忘れてしまった」のと同じであろうと思うので、いつもそのように言っていた。

 

「いや……すまぬ。責めているわけではないのだ」

 青年、ベルナールは力なく笑って、膝を折った。視線が合う。

「あなたが、生きていてくれた。それだけで……」

 

 と次第にうつむき、そのまま黙り込んでしまった。こういうとき、瑠璃姫にはどうしたらよいのかわからない。助けを求めるようにサイードを見ると、なぜだか軽く頷いて瑠璃姫の頭を撫でたあと、なにも言わずに出ていってしまった。

 

 ふたりきり、静まり返った部屋に残される。ベルナールはうつむいたままだ。

 

 どこか、悪いのだろうか。それともやはり、機嫌を損ねてしまっただろうか。いろいろと考えて、結局なにもできずにいる瑠璃姫に、ようやく、相手から声がかかった。

 

「……触れても、よいか」

 

 それは、消え入りそうな声だった。

 

「あなたに触れても、よいだろうか」

 今度は、もうすこしはっきりと。けれどちいさく揺れていて。

 

「あなたがここにいるのだと、たしかめてもよいだろうか」

 あまりに、せつなく訴えるので。

 

「……はい」

 

 断ることなど、できなかった。

 あ、と思う間もなく、正面から、抱きすくめられていた。

 

 不思議だ。知っている。この体温を、知っている。

 

「……髪が、伸びたな」

「そうなのですか?」

「それに、すこし痩せた。もとから細かったが」

「……そうでしたか」

「そうだ。そんな華奢な体で、いつも無茶をして」

「申し訳ありません、なにも……覚えていなくて」

「私が覚えている」

 

 力強い言葉とは裏腹に、瑠璃姫を包み込むベルナールの腕はかすかに震えていた。

 

「私が覚えている。あなたのことも、あなたの大切なひとたちのことも。思い出したくないのなら思い出さなくていい。忘れたいことなど忘れてしまえばいい。もとに戻してやるとか、守ってやるとか、そんな傲慢なことは言わぬ。だから……」

 

 息が詰まるほど、強く。

 

「頼む。……そばにいさせてくれ」

 

 かすれた声で紡がれたその祈りにも似た言葉に、答えることは難しかった。これは、瑠璃姫が受け取るべき言葉ではない。

 

 だから、せめてこのひとの震えがおさまるまでは、じっとしていようと思った。

 

 答えることもできず。手を伸ばすこともできず。

 そうして、そっと、目を閉じた。