視線がこちらに向けられるのがいやでもわかる。再び聞こえてきた砂を踏む音は、まっすぐにこちらを目指していた。
あと三歩、二歩。一歩。
音が、止まる。
「女」
すぐそこで声がした。
次の瞬間、鞘鳴りが響き風が震えた。少量の血液が空に散る。切り裂かれたアイザックの衣服が肩をすべり、平らな胸を露わにした。その中心を走る、赤い線。それから胴体に巻きつく巨大な蛇のような入れ墨が、リュシエラの目にはっきりと映った。
エリアスの剣先がアイザックの頤を捉える。そうして無理やり顔を上げさせられてもなお、アイザックは微動だにしなかった。
「やはり貴様か、ユライの犬」
「本当に犬に見えるのなら、いますぐ目ん玉くり抜いて取り換えたほうがいいですよ」
言いながら飛び退るのを、白刃の閃きが追いかける。
エリアスはそれ以上追わなかった。代わりに背後から新たな剣が迫る。それを見ずに上体を沈ませたアイザックは、するりと撫でるような動きで逆に背後を取り、敵の首に縄をかけた。そのまま引き倒す。
そういえばリュシエラの拘束を解いてくれたとき、しっかり縄を回収していたような気がする。などと思っているうちに、今度は挟み撃ちするように新手が現れた。
アイザックは冷静だった。そしておそろしく身軽で俊敏だった。なめらかに剣の間を抜け出したかと思ったらすでにひとり捕らえていて、その背を蹴ればあとは敵同士、勝手にぶつかって仲よく倒れる。その間にまた別方向からの攻撃を躱し、そのまま後方へ二回転。さらにもう一回転しそうなところで高く上げた足を敵の肩に絡ませ、地面から手を離した瞬間にはなんとその肩の上だった。両のふとももで顔を挟んで固定すると、驚愕で大きく開いた口に袋を突っ込む。
その袋はリュシエラにも見覚えがあった。あの、大量の虫が入った袋だ。
突っ込まれたほうはしばらくしてから暴れ出し、なんとか取り出そうとするもアイザックの手がそれを許さない。リュシエラは思わず両手で口もとを押さえた。
容赦のない虫責めは続く。それがようやく終わったのは、相手が耐えきれず倒れ込んだときだった。軽やかに降り立ったアイザックの両足の向こうで、吐き出された虫たちがびちびちと跳ねる。
それでもまだ半数以上残っている敵が動いた。さすがにもう駄目なのではないかとリュシエラが目を背けかけたとき、
「よい」
エリアスが片手をあげてそれを制した。すべての動きがぴたりと止まる。
「まさしく獣だな。おぞましい」
乾いた風がエリアスの声を乗せた。
アイザックは答えず、静寂のなかに佇んでいる。その上下する胸や腹を這う入れ墨が黒く艶めき、いよいよ質量を持つ蛇のように見えた。そう、蛇だ。獣というよりは。
妖しく美しい銀色の瞳が、ガラスのごとく陽に透けていた。
「ユライも哀れなものだ。汚らわしい捨て犬など拾わなければ、まともな人間でいられたであろうに」
エリアスが再び口を開く。さらに続いた言葉に、アイザックの眉が上がった。
「だからこそ、更生のしがいもあるのだが」
草の葉が小さく揺れた。低い声がその下を這って響いた。
「ユライさまになにをした」
「それを訊きたいのはこちらのほうだ。あれはもはや正しい生活ができぬほど退廃している。よほど強い毒を盛られたに違いない」
抑揚のない声が、ただ一定に流れて答える。
「我が弟になにをしたのだ、蛮族よ」
アイザックが強く拳を握ったのが見えた。震えるその表面を赤い筋が数本流れ、珠となって落ちると音もなく弾けて砂に吸われる。リュシエラはハッとした。
右肩の矢傷だ。掠っただけだと彼が言った傷口から、新たな血がどんどんあふれてくる。
よく見れば顔色も悪い。前髪を額に貼りつかせるのは脂汗だろう。見る間に呼吸も乱れてゆく。好ましい状態でないことは明白だった。
「おや、苦しそうだな」
エリアスが剣を握りなおした。
アイザックは動かない。いや、動けないのだろう。軽く頭を振ると均衡を崩し、片膝をついてしまった。顔を上げて正面を睨むも焦点が合っていない。
対してエリアスは悠々と歩み寄り、深い穴を思わせる目でそれを見下ろす。そして二歩ほどの距離を置いてアイザックのまえに立つと、
「らくにしてやろう」
と剣を振りかざした。
そのときにはもうリュシエラは動き出していた。
力の限り足を踏み込む。がむしゃらに地面を蹴る。なりふり構っていられなかった。考える余裕もなかった。ただ突き動かされるまま一直線に駆けた。
いままさに振り下ろされんとする白刃のもとへ飛び込む。両手を広げてしっかりと立つ。正面から、紫の瞳をまっすぐに見据えた。
瞬時、それがはじめてわずかに揺らいだ。
鋭い風が頭上を過る。頭を覆っていた布が剣先に払われ、解放された長い髪が豊かに広がる。その青い輝きを、邪魔するものはなにもない。
「させない」
揺るぎない意志を、押し出した。
エリアスは瞬きもせずにこちらを見ている。やがてその腕がゆっくりと動きはじめたとき、リュシエラの体は突然宙に浮いた。うしろから抱き上げられたのだ。アイザックだった。
「ちょっと、なにするのよ!」
その粗雑な荷物のような抱き方――というより担ぎ方に異議を申し立てれば、
「決まってるでしょう」
と思いのほかしっかりした声が返ってくる。アイザックはそのまま近くにいた馬に飛び乗ると、リュシエラを背中から抱きかかえるようにして手綱を握った。
「逃げるんですよ!」
馬の腹を蹴る。
景色が勢いよく流れ出し、それを覆い隠すように土煙が上がった。思わず瞼を閉じる。次に開けたときには、すでに黒衣の人影は小指ほどの大きさになっていた。それもあっという間に遠ざかってゆく。
代わりに数本の矢が風切り音を伴って追いかけてきた。アイザックは振り向く素振りすら見せず、だがものの見事にそのすべてを躱してみせた。
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