なにか、浮いている感じがする。雲の揺りかごに寝かされているような、どこかおぼつかない感覚。
絶えず頬に触れるのは――風。そう、風だ。でも、どうして。風は止んだはずなのに。そう思ったとき、ばさりという音がリュシエラの耳を打った。これは、羽音。大きな翼の動く音。鳥、では、ない。もっと力強い、けれど風と調和するこの感じ。たしかどこかで。どこかで――
「目が覚めました?」
と、突然耳もとで声がして、リュシエラは飛び起きた。立ち上がろうとしたところを、ぐいと引っ張られて倒れ込む。
「暴れないでください、落ちますよ」
そう言う声も、リュシエラを受けとめた腕も、おそらく若い男のものだ。知人ではないだろう。それをたしかめようと顔を上げたリュシエラは、べつのものに目を奪われた。
眩しいほどの月光のなか、羽ばたく影が三つ。人に見える上半身に鳥のような下半身、それから背中の翼の美しさは、鮮明に覚えている。
「あなたたち!」
思わず声をあげた。間違いない。二年まえ、リュシエラを王都アヴァロンの旧市街まで運んだ有翼亜人たちである。ということは。
リュシエラはまず足もとを見て、それから顔を横に向けた。やはりあのときと同じ、巨大な籠に乗せられている。ゆっくりとそのふちに近づいた。身を乗り出す。もはや眼下には暗闇しかなく、頭上には空だけが広がっていた。
「だから言ったでしょう。落ちるって」
淡々とした声に振り向けば、空を飛んでいるというふつうではない状況にも関わらず、男はくつろいだ様子で座っている。
「あなた、だれ」
「冷静ですね。さすがは一国の王女といったところですか」
息が止まるかと思った。
唾を呑み、男に視線を固定する。外套のフードを目深に被ったその表情は見えない。
「……どうして」
「どうして? むしろどうして知られていないと思ったんです?」
謗るわけでもない、揶揄するわけでもない、ただ純粋に問うているのであろうその言葉に、答えることができなかった。
言われてみればたしかにそうだ。あのとき、アウロラに用意された道を脱したことですっかり自由になったつもりでいたが。
「生かされていたんですよ、きみは」
どうやら現実はそう甘くはないらしい。
「……つまりあなたは、だれかの命令でわたしを攫ったということ?」
あの花畑で見た人影が、この男であるということはもはや明白だ。緊張を隠しながら発した問いに、男は
「いいえ。我々はだれの下にも属しません」
と即座に答えた。
「なら、なんなの」
「春の一座。……聞いたことはありますか」
リュシエラは首を傾げつつ、曖昧に頷いた。聞いたことはあるような気がする。だがはっきりとは思い出せないし、男がなにを言いたいのかもわからない。
「世間知らずですね。まあ閉じ込められていたのならしかたがないか」
「……あなたどこまで知っているのよ」
「大抵のことは。要するに春の一座はそういうものなんですよ。表向きはただの芸能集団ということになってますけどね」
男がわずかに姿勢を変えた。
「おれも全容を把握しているわけではないですけど、言い換えれば、春の一座は巨大な情報網です。ドラグニアの半分は覆うくらいのね。それはおいおい理解してもらうとして、そんな便利なものがあったらどんなひとたちが食いつくと思います?」
背中に汗が伝うのを、リュシエラは感じていた。相変わらず男の顔は見えない。リュシエラが渇いた喉を震わすまえに、男は言った。
「だいたい高貴な方々だということは想像がつきますよね。たとえば、きみの双子の片割れとか」
アウロラ。
その名は呪いだった。どこまでもリュシエラにまとわりついて、離れない。
「我々はそういうひとたちに情報を提供したり、逆に仕入れたりすることで身を守っています。そしてときには介入することもある……アウロラ王女に依頼されて、きみを聖都へ送り届けようとしたように。でもこれは、だれかに従ってやっていることではありません。すべて自分たちのため。各々の目的のためです。ただそれを達成するためには、どうしても強力な後援者が必要だ。つまり、情報の統括者が」
男の手が伸びて、リュシエラの腕を掴んだ。
「きみはうまく逃げたつもりだったかもしれませんが、この二年間、彼はずっときみを見ていたんですよ」
なぜか振り払うことができなかった。男は急に喋るのを止め、フードの下からじっとこちらを覗いている。
自分から聞くしか、ないのだろう。リュシエラは小さく息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
「それは、だれなの」
「ベルナール・アングラード。いまアヴァロンの玉座に座っている男です」
胸を突かれたようだった。
ソランと一緒に「新しい王さま」を見たあの日、リュシエラはただこの国に生きる者のひとりとして、その存在を遠くに感じていただけにすぎなかった。だが、相手は。
目の奥で豪奢な金髪が波打つ。こちらを振り向き、そして、笑った。
見られていた。見られていた! あのとき、見ていたのは自分だけではなかった。相手もまた、こちらを見ていたのだ。それも、この身に流れる血の色を認識したうえで。
発作的に、籠のふちに手足をかけていた。両脇を風が通り過ぎる。行かなくては。どこでもいい。とにかく、この視線から逃れられるところへ。
ぐっと足裏に力をかけ、手を離した瞬間だった。
「きゃあっ」
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