唇が乾いて引きつる。なんとはなしに指でなぞった。爪が引っかかって、すこしだけ皮が剥けた。
「お妃さま、ほんとに大丈夫なのか?」
ソランがおずおずと顔を覗き込んでくる。
「ああ。すまなかったな、情けないところを見せて」
「そんなこたぁねぇけどさ……」
なんとなく目を合わせるのが躊躇われて、瑠璃姫は逃げるように視線を上げた。まだ怠さの残る腕を動かし、馬を繋ぐことに集中する。
町に着いたのはちょうど昼どきだった。そこかしこから食べ物のにおいがするが食欲はわかない。あのあとしばらくすると呼吸は落ち着いたものの、そもそも睡眠もとっていない体にはつらすぎた。とりあえず横になりたい。
到着早々宿を取り、そのころには目を覚ましていたティナを先に部屋へ入れた。まだぴくりとも動かない亜人はべつの部屋に寝かせてある。良好な状態なのはソランだけだが、さすがに馬や荷物を彼に任せるわけにもいかず、瑠璃姫は休むことなく動き続けていた。
「……ソラン」
「ん?」
馬を繋ぎ終えると軽く息をつく。続けて出した声はかすれていて、満足に響かなかった。それでもすぐに気づいて応えてくれたソランの、顔は見ないままで問いかける。
「おまえは行かなくてよかったのか」
「んあ? あー、巫女さまと一緒に? ってこと?」
見つめられているのがわかった。視線には応えずに首肯だけ返す。
「まあ、ちょっと置いてけぼり食らった感じはあるけど、最初から巫女さまはおれを連れてく気なかったみてぇだしなー」
しょうがねえよな、とソランは笑った。返す言葉を組み立てるのもままならなかった。するとすこしの間だけ沈黙したソランが、
「それにさ」
と再び口を開いた。
「おれ、こんな状態のお妃さま放っておけねぇよ」
瑠璃姫は逸らしていた目をゆっくりと動かし、次いで顔ごとソランへ向けた。あたたかみのある琥珀色が、まっすぐにこちらを見ていた。
純粋に、なにを考えることもなく、ただただ、ありがたいと思った。
そっと腕を取って引き寄せた。「わっ」という声とともに、成長の途上にある体が飛び込んでくる。こうすると思った以上に小さくて、まだ頼りなくて、すっぽりとこの腕のなかにおさまる姿は愛らしい。思わず、笑みがこぼれた。
「ありがとう、ソラン」
ぎゅっと抱きしめると控えめな抵抗がはじまる。
「だーかーらーっ! そういうのは旦那さん限定にしとけっての!」
それがますますかわいくて、思いきり髪や頬を撫でまわした。ソランがじたばたとしていたのは短い間で、やがて瑠璃姫の胸に頭を預けると盛大なため息をつき、心なしか赤く染まった耳を掻く。
「こんなとこリューには見せらんねえなぁ……」
とぼやく声の最後に、なにか、重い音がぶつかった。
突然の異音にふたりで顔を見合わせた。どうやら厩舎の外、すぐそこから聞こえてきたものらしい。どちらからともなく離れて、ほとんど同時に外へ出た。
そこに、子どもがひとり、倒れていた。
粗末な衣服から覗く肌は褐色、もつれた髪は銀色。だいぶ人間に近い見た目をしているが、亜人だ。
「大丈夫か」
駆け寄ると子どもはわずかに身じろぎ、その細い足にはめられた足枷を鳴らした。
「……へいき」
まだ幼い声がする。ソランと同じくらいか、すこし年下だろうか。だがどこか冷めた感じのする声だった。
「構わないでください」
そう言ってふらりと立ち上がる。手のひらと膝に血が滲んでいるのが見えた。
「待て、せめて洗い流したほうがいい」
「そんな暇はありません。水だって無駄にできませんから」
うつむき気味の目もとを、無造作に伸びた前髪が隠す。裸足の爪先は、前方に散らばっている木箱や袋に向けられていた。それらを運んでいるうちに転んでしまったのだろう。見るからに子どもの腕には大きく、数も多く、重量だってそれなりにありそうだった。
「手伝おう」
「おれも一緒に運んでやるよ!」
と、ソランと頷きあったときである。
「駄目!」
驚くほど鋭い声が飛んだ。
思わず振り向けば、それを言ったほうが狼狽えて大きく肩を震わせる。それから二度、荒い息を吐き出すと、押し殺したような声で言った。
「お願いだから余計なことしないでよ」
銀色の前髪が揺れて、その隙間からかすかに両の目が覗く。その鮮やかな色に、瑠璃姫はハッとした。
手を伸ばす。強張る頬に触れる。包み込むように、そっと銀髪を掻き分けた。
果たしてそこに現れたのは、見覚えのあるふたつの色。晴れ渡る昼の空と、燃える黄昏の空をそれぞれ別々に溶かし込んだかのような、左右で異なる色合いを持つ瞳だった。
「……やっぱり」
「……なんで」
呟く声が重なる。
「えっ、なに? まさかまた知り合いなの?」
ソランが遠慮がちに横から首を伸ばした。たしかに疑いたくなるほど、できすぎた偶然の続く日だと思った。
この邂逅を、のちに瑠璃姫がアスライルと名づけた少年のほうがこう語る。
『まったくの偶然で、しかしそれは必然であった。もし天の意思というものが本当にあるのなら、これは非常によい判断だったと言える。なぜならば、その出会いがなければ、世界は私を知ることなく永遠に失ったであろうから。』
筆者もそう思う。そうして彼を知った世界からインスピレーションを受け、本書を著すに至った身としては、この場面への立ち合いに感情の昂りを禁じ得ない。ゆえに筆が乱れることをどうかお許しいただきたい。
ああ、ここに。ではこここに、『幻影譚』の生まれる素地は整ったのだ。
長いプロローグを経て、いま、我々はスタートラインに立ったのである。
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