銀色。
それはこの国で見られる目の色としては、そこまで珍しいものでもない。だがどうしてもそれによって思い起こされるものがある。
アッキア・ナシア。
かつてこの地で繁栄をきわめた「銀灰の古王国」。その王女であったという、瑠璃姫たちの信仰における「聖女」エスタスは、鉄のような銀灰色の目をしていたと伝えられる。そしてその親や兄弟姉妹も。
つまりはアッキア・ナシアの王族に多かった目の色ということだ。
「ネンデーナと申します。旧市街から焼け出されて、数人の仲間とともにさまよっていました。まさかこんなところでこの子と再会できるなんて」
ソランに巫女と呼ばれた女性は、てきぱきと手を動かしながらそう言った。
巫女。巫者。アッキア・ナシアの統治者と直結する言葉だ。
「……あの火災の原因を、あなたは知っているか」
土の上に並べられた薬草の数々を眺めながら、瑠璃姫は問いかけた。ネンデーナの目がこちらを見る。
「いいえ?」
とほほ笑んで、すぐに作業に戻った。袖口から、手首を腕輪のように飾る入れ墨が覗く。
「お妃さま、巫女さまってすげぇんだ! おれさ、むかし生き返らせてもらったことあんだぜ!」
「……生き返らせた?」
するとネンデーナはかすかに声を出して笑った。
「それは神々がソランを死者の国にお迎えにならなかったからです。まだ地上にとどまるべきだと仰せになったのですね。わたしはただそれを伝えただけ」
薬草を混ぜ合わせてすり潰し、傷ついた亜人の肌に塗り込んでゆく。その上から包帯を巻き、骨折していると思われる箇所には添え木をした。至ってふつうの手当てに見える。
「この方の生命の糸はとても弱っていますね……けれどまだ切れるべきときではないようです。繋ぎましょう」
そう言うと今度は赤い顔料のようなものを指で掬い、亜人の胸もとになにかの文様を描いていった。指をすべらせるのと同時に、聞いたことのない言葉を紡いでゆく。
呪文、だろうか。
不可思議な音のうねりが地を這い、ときに空へと放り投げられる。なぜだかそれに絡めとられるような心地がして、その間、指一本動かせなかった。
「もう、大丈夫ですよ」
しばらくしてかけられた声に、瑠璃姫は、はっと息を吐き出した。どうやら呼吸まで奪われていたらしい。軽く眩暈がする。頭を振って、不快感を追い出した。
見れば亜人の上半身には、うねるような文様がびっしりと描かれている。一本の線のようにも見えるそれは、まるで体をくねらせる赤い蛇だった。
「あとは一日に二回、これを二口ずつ飲ませてあげてください。しばらくは眠ったままでしょうが、お昼過ぎには目を覚ますと思います」
手を拭ったネンデーナがにこりと笑う。それから瑠璃姫に液体の入った革袋を手渡すと
「次はあちらの方ですね」
と荷馬車のほうへ目を向けた。
そのまま歩き出そうとするのを引きとめる。無意識だった。掴んだ腕はひやりと冷たい。
「なにも、おかしなことはしませんよ」
諭すようにそっと手を取られて、やんわりと押しやられた。相変わらず笑みの浮かぶその顔に、言い返すことはできなかった。
ネンデーナがティナのそばに膝をつく。そっと丸い腹に触れた。再び呪文が流れ出す。ネンデーナの手が何度腹を撫でても、ティナが目を覚ます気配はなかった。
ややあって、呪文が止んだ。今度は薬草も顔料も使わないらしい。銀色の双眸がこちらを向いた。薄暗い荷馬車のなかにあってもなお、明るい。
「母子ともに異常はないようです。ただ、ずいぶんと疲れてしまっているみたいですね。あまり刺激を与えず、よく休ませてあげてください」
言いながら丁寧に毛布を掛ける。一度祈るように天を仰いでから音もなく立ち上がり、ネンデーナは荷馬車を降りた。その足が地面についた瞬間だけ、しゃらんと鈴が鳴った。
銀色だ。その音まで、銀色。
視界がチカチカする。瑠璃姫は瞼を閉じて目もとを押さえた。なぜだろう、妙に息苦しい。気のせいだと思うことにして汗ばむ手を下ろそうとしたところで、
「次は、あなたです」
掴まれた。気づけば銀色の輝きが目のまえにある。決して強い力で押さえつけられているわけではないのに、なぜか振りほどけなかった。
「わたしはどこも負傷していない」
「いいえ、あなたは無理をしています。いまだけでなく、ずっと、長い間。そうでしょう――〈お妃さま〉?」
息が詰まった。
こちらを見つめる瞳に、なにか変化があったわけではない。声の調子も変わらない。なのに全身が緊張で強張って、動けない。
「あなたのからだは、もともと俗世には適応していないようです。ずいぶん苦しい思いをされてきたのではないですか」
冷たい指先が腕を撫でた。背筋が凍る。だが不思議と震えることさえできなかった。
「考え直したほうがいいですよ。あなたの生きる場所はここではない。もっと静かで、清らかなところへ行きましょう。でなければ近いうちに、あなたの肉体は崩壊してしまう」
頬に乾いた手のひらの感触。顔が近づく。耳もとに、唇が触れた。
「――あと五年」
囁くような声が直接流れ込む。
「あなたの命は、もってあと五年です」
そこでようやく体が動いた。
絡みつく腕を引き剥がし、前方へ押しやる。ほんのすこしだけ揺れた銀色の目を見据えて、正面から、言った。
「ならばそれを生き抜くまでだ」
驚いたように見えたのは一瞬で、すぐにネンデーナは体勢を立てなおし一層笑みを深くした。
「あなたは強いですね。強くて美しい。けれど、それが己や他人を不幸にすることもある、ということを覚えておいてください」
ひらりと離れて、踊るように振り返る。
「あなたが後悔しない未来を、願っています」
鈴が、鳴った。
風が吹いた。
ふっと空が暗くなった。雲が出てきたのかと思ったが、違う。
白銀の羽根が一枚、鼻先を掠めて舞った。
唄うような咆哮があたりを包んだ。巨大な影が頭上で羽ばたく。気高き獣の体、光を纏う三対の翼、黄金の二本角。
竜が、眼前に降り立ってこちらを見つめた。
その吐息が前髪を揺らす。鋭い牙が壁となって現れる。赤い舌がちらつく。
立っていられなかった。
恐怖に喉が締めつけられた。息ができない。苦しい。
「残念ですがもう行かなくては。お会いできてよかったです」
ネンデーナの声が遠くに聞こえる。どうして、と考える余裕もなかった。
息を吸おうとすればするほどますます苦しい。その場に蹲った。胸が猛烈に痛んだ。痺れる手で掻きむしるように押さえ、なんとか顔を上げるも視界が歪む。
ほとんどなにも見えないなかで、だがこれだけはわかった。人影がふたつ、竜の背に跨ったのだ。
そのうちのひとつが、青みを帯びた黒髪を、靡かせているように見えた。
「ソランをよろしくお願いします」
自身の張り裂けそうな鼓動と喘ぐ音に紛れて、ネンデーナが言う。
待て、と、口を動かすことすらできなかった。
強い風が起こった。反射的に目を閉じる。次に開けたときには、すでに竜は中空高く舞い上がっていた。
「お妃さま!」
遠く、波打つように音が回る。背中に触れるのはソランの手か。それくらいはかろうじてわかる。けれどわからない。
なにが起きた。
なぜだ。あれはだれだ。
追わなくては。
なんとしても突き止めなくては!
しかし手足は動かず、苦しみは増すばかりで、いよいよそれから逃れることしか考えられなくなってきた。
叫び出したい気分だった。それもできなかった。
もうほとんど開けていられない目の端が濡れた。力の入らない拳を、それでも地面に叩きつけた。
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