火のついたように赤児が泣いた。
よく晴れた空から初夏の陽射しが降り注ぐ。強い風で砂が舞い上がり頬を叩いたが、リュシエラは瞬きもせずに敵の目を見据えていた。
対する大柄な少年は口の端を釣り上げて、得意げに手首を振る。その動きによりガラガラと音を立てるのは、赤児をあやしていた少女の手から奪われた玩具だ。彼女は泣き叫ぶ小さな妹を抱いて、すっかり怯えてしまっている。それを庇うように立ち、リュシエラは静かに言った。
「返しなさい」
少年は答えない。五歩先のところで取り巻きを従え、ただニヤニヤと笑うだけである。
これはもう、言うだけ無駄だとリュシエラは思った。が、このままでは面白くないのでさらに続ける。
「その赤ちゃんのおもちゃが欲しくてたまらないのはよくわかったわ。でもこういうことはよくないと思うの。……と言ってもわからないかしら、あなた赤ちゃんだものね」
すると、少年の顔が見る間に赤くなった。先ほどまでの余裕はどこへやら、わなわなと全身を震わせて唾を飛ばす。
「おまえ本当にかわいくないな!」
と人差し指を突き出した少年に、
「そうね。かわいいというよりは美人だわ」
リュシエラは鷹揚に頷いてみせた。その直後、
「ぶへっ!」
と妙な音が飛んできたのは、前方からではなく右肩の斜め上方からである。見ればまたべつの少年がひとり、低く平らな屋根の上で腹を抱えていた。数日まえ、一緒に「新しい王さまとお妃さま」の仲睦まじい様子を盗み見た、あの少年だ。
「ソラン」
咎めるようにその名を呼ぶと、ソランは奇妙に頬を膨らませて首と両手を振った。察するに、いいから続けろ、といったところだろう。文字どおり高みの見物を決め込む気らしい。
べつに加勢しろなどと言うつもりもないので、リュシエラはそのまま、まえに向きなおった。対峙する大柄な少年は、その間に多少余裕を取り戻したようだ。いやらしい笑みが戻っている。引きつっているのがなんとも無様ではあるが。
「なぁーにが美人だよ。男みたいな格好しやがって」
「それのなにがいけないの」
「おかしいだろ、どう考えたって! 女のくせに!」
少年が取り巻きの同意を得て笑う。なるほどたしかに、いまのリュシエラの格好は女らしさとはほど遠い。というより、もはや完全に男装である。唯一「お嬢さま」と呼ばれていたころと同じ長い髪は、すべてまとめて頭に巻いた布のなかだ。ぱっと見た感じ、短髪の少年たちと変わらない。
だが、それがなんだというのか。
「どう考えてもわからないわ。この服装が機能的でいいと思った、だからわたしはこれを選んだ。それだけのことよ。なにがおかしいと言うの」
笑い声が止まる。
「たしかにわたしは女だわ。どんな格好をしてもその事実は変わらない。だったら、なにを着たっていいでしょう。違う?」
「……そ、そんなの」
「それに」
一歩まえへ。
「どんなものを纏っていても、わたしの美しさはわたしのものよ」
強い風が吹き抜けた。短く口笛を鳴らしたのはソランだろう。前方の少年たちはポカンと口を開けている。それはそれでつまらないから、つい
「そんなこともわからないなんて、やっぱり赤ちゃんね」
と余計なことを言ってしまった。再び少年の顔が紅潮してゆく。
「てめぇ……」
少年の手から玩具が離れた。取り巻きのひとりがそれを受け取る。握り拳を震わせながら近づいてくるのを正面から見据えて、
「生意気なんだよッ!」
と腕が伸びてきたのと同時、リュシエラは片足を軸にして舞うように体を回転させた。的を失った少年がその勢いのままたたらを踏む。その背後に回り込み軽く肩を押せば、少年はあっけなく地に倒れ伏した。背中に乗って腕を捻り上げ、動きを封じる。間抜けな声が上がった。
続いて、取り巻きたちがなにか叫びながら走ってくる。三人。だいぶ動きは鈍そうだ。彼らがそれぞれ片足を上げようとしたとき、リュシエラは組み敷いた少年の背にぴたりと密着した。まるで抱きつくような姿勢だが、もちろんそこからロマンスが生まれるはずもなく――少年の脇の下に腕を差し込んだリュシエラは、その上半身をグイと持ち上げた。
哀れ、盾にされた少年はなすすべもなく、自身の取り巻きの蹴りを顔面に受けることになる。攻撃した側であるはずの取り巻きたちが小さく悲鳴を上げた。
「ひ、卑怯だぞ!」
という言葉は無視するに限る。もはや戦意の欠片もない少年を解放したリュシエラは、乾いた砂を一瞬で掻き集めると巻き上げるようにして前方に投げつけた。それは狙いどおり、風の力も借りて標的に命中する。すなわち、六つの目。目潰しをまともに食らった取り巻きたちは、涙を流して転げ回った。そのうちのひとりが放り捨てた玩具を空中で受け止めて、一言。
「ごめんあそばせ」
それが、試合終了の合図となった。
「あーあ。だから言ったのによ、やめとけって」
と屋根の上でしきりに頷くソランに、
「あなた笑って見てただけでしょう」
ため息まじりに返す。
「そりゃあさ、あれだよ。リューならぜってぇ負けねぇっていう、信頼?」
「あら、そう」
軽く受け流しながら振り返った。そこには、赤児を抱いた少女が呆然と立ち尽くしている。ゆっくりと近づき、玩具を差し出した。
「はい、どうぞ」
数秒の間を置いて、少女がぱっと破顔する。
「ありがとう……!」
少女の手に玩具が戻り、赤児が笑い声をあげた。あまりに眩しくほほ笑ましい光景に、ほんのすこしだけ棘を刺されたような気持ちになったが、この姉妹には関係のないことだ。
それ以上はなにもせずに、立ち去ろうとした。そのときだった。
「リュシエラ」
決して強くはない、だが逆らえない声がリュシエラの足を止めた。声の主を視界に収めるより先に、ソランが
「巫女さま!」
と嬉しそうにそのひとを呼ぶ。
清かな鈴の音が響いた。彼女の亜麻色の髪は複雑に編み込まれていて、四本の細い束が長く膝のあたりまで伸びている。その先端に鈴がくくりつけてあるので、それが動くたびにしゃらしゃらと鳴るのだ。つまり、彼女がどこにいるのかはすぐにわかる。もうすぐそばまで来ていた。
「こんにちは、ソラン。元気なのはいいことですが、屋根の上は危険ですよ」
鈴の音よりも軽やかな、それでいてまろやかな声で窘められたソランは、素直に「はい」と返事をしておりてきた。ずいぶんと態度が違うではないか、とは、言わない。人のことは言えないからだ。
しゃらん、とまた音がして、リュシエラはなめらかな感触に頬が包まれるのを感じた。真正面からこちらを見つめるのは、銀の瞳。若く透きとおるような肌に長い睫毛が影を落とす。それはまさしく、この二年間ずっと世話になっている恩人の顔だった。
「ネンデーナ」
「おいこらぁ! 巫女さまと呼べ、巫女さまとぉー!」
と喚くソランは放っておいてよいだろう。本人にそう言われたなら直すかもしれないが、ネンデーナはまったくいつもどおりで気にした様子もない。
旧市街で暮らしているとは思えないほど綺麗な手が、リュシエラの顔から肩、次いで腕をやさしく撫でてゆく。しばらくしてほっと息をついたネンデーナは、その柳眉をわずかに曇らせた。
「……怪我はありませんね?」
「ないわ」
「でも、怪我をさせてしまったんですね……」
「させてない。わたしはだれも攻撃してないもの」
これは事実だ。目潰しは攻撃ではなく、防衛だから問題ない。
「ええ、きっとそうでしょう。けれど、結果として怪我をしてしまった人がいます。それは認めなくてはね」
「…………」
リュシエラは不承不承、頷いた。認めたくはないが、かといって恩人を悲しませたいわけでもないのだ。
その気持ちを汲んでくれたのか、ネンデーナはすこし困ったようにほほ笑むと、未だ地面に這いつくばったままの少年たちのほうへ歩き出した。それを見上げる四対の目が鈍く輝いている。
リュシエラは確信した。あいつら、絶対にもう自力で起き上がれる。
「大丈夫ですか?」
と手を差し伸べる彼女に、
「巫女さまぁ」
と必要以上にもたれかかる姿が腹立たしかった。痛みを遠ざけるおまじないを唱えるネンデーナに、少年たちの視線が集中している。いつの間にか隣に立っていたソランが呟いた。
「いいなぁ……」
それからこちらを見て、屈託のない笑顔で言う。
「ああいう人をさ、おひめさまって言うんだよな!」
リュシエラは答える代わりに、ゆるみきったソランの頬をつねった。
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