そのあとはもう、美女は必要なことしか言わなかった。とりあえず、彼女たちはアウロラに頼まれて、リュシエラを聖都まで送り届ける役目を負っているらしい。ならば、彼女たちに頼めば行き先を変えられるかもしれない。夜着一枚では寒いだろうからと外套を肩にかけてくれた美女に、リュシエラは他のところに連れていってほしいと告げた。
しかし、そう簡単にはいかないようだった。
「申し上げたはずですわ、お嬢さま。わたくしたち、面倒な話は聞かなかったことにする主義ですの」
なるほど、世のなかには自分の思いどおりにならないことなどたくさんあるのだ。
「そう、わかった。自分でなんとかするわ」
たぶん、彼女たちも王女には逆らえないのだろう。リュシエラはすぐに納得したが、美女は驚いたように目を瞬かせた。
そうして簡単に支度を済ませ、裏口から外へ出た。案内されるまますこし歩くと、翼の生えた亜人が三人と、大きな籠が見えた。
「これに乗っていくの?」
訊けば、美女が頷く。
「お気に召さないかもしれませんけれど」
「いいえ、興味深いわ。こんな移動手段があるのね」
これはつまり、この籠に乗って、有翼亜人たちに運んでもらうということなのだろう。知らなかった。そういうこともできるのか。
「まあ、一般的ではございませんわね。真似されるとちょっと困りますので、このことはご内密に」
美女が唇に人差し指を当ててにっこり笑った。
「そう、残念ね。みんなが使えればとても便利なのに」
言いながら、リュシエラはさっさと籠に乗り込んだ。亜人の翼が間近に見える。鮮やかな色合いが純粋に綺麗だと思った。
「……お嬢さまは、亜人に偏見をお持ちではないのですね」
「さあ? よくわからないわ。でも、少なくともわたしの奴隷は、わたしとなにも変わらなかったもの」
そこで、リュシエラは彼のことを思い出した。あの程度の怪我ならば死ぬことはないだろうが、今後どうなるかはわからない。ただ、なんとなく生き延びるような気はしている。
リュシエラはすこし考えて、美女に言った。
「面倒なら聞き流してくれてかまわないのだけれど。もし、左右で違う色の目をした亜人に会ったら、すこしだけ気にかけてやって。……わたしのことは絶対に言わないで」
「言わなくてよろしいんですの?」
「もうわたしのものではないもの。それに」
リュシエラは確信していた。
「お互いに生きてさえいれば、また会うこともあるわ」
まあ、とくに理由はないのだが。
美女はやわらかく笑って、頷いた。なんとなく、いままでの笑顔とは違うように見えた。
「考えておきますわ。……お嬢さま、あなたがこれから生きていく場所が、聖都ではないどこかであることを願います」
「そうね。わたしもよ」
そう返すとすぐに、亜人たちが翼を動かしはじめた。気づけばもう、リュシエラの体は籠ごと宙に浮いている。見る間に遠ざかってゆく美女の姿や町並みを、リュシエラはじっと眺めていた。
月光が明るい夜だった。それでも、すぐにそれらは闇に紛れて見えなくなる。見えないものを、無理に振り返る必要はない。リュシエラはまえを向いて、なんとはなしに首から下げた鍵を握った。
夜気に触れて、すっかり冷えている。これはいつか突き返す。それまでは持っていてやろう。
そのためにも、いまここで、アウロラの敷いた道から抜け出さねばならない。
「ねえ」
頭上で羽ばたく亜人たちに声をかける。
「聖都に行くのはやめて。それ以外ならどこでもいいわ、適当に降ろしなさい」
反応はない。やはり言うだけでは行き先は変わらないようだ。それならば。
リュシエラは立ち上がり、亜人たちを見上げた。座れ、という合図なのだろうか、亜人たちもこちらを見て、なにやら手を動かしている。リュシエラはそれを無視して、風のなかに立っていた。
言葉で変えられないのなら、行動で意思を示せばよい。
「見なさい」
籠のふちに手をつく。足をかける。そしてそのまま――飛び降りた。
瞬間、肉体の存在を忘れた。
だが直後には痛いほどの風を受けて、己をはっきりと自覚した。目も開けていられない。掴めるものはなにもない。どこまでも広がる空。
はじめて、世界の広さを感じた。
バサッと大きな羽音がして、抱きとめられたのがわかった。目を開ける。焦ったような亜人の顔が目のまえにあった。
「わかったわね? わたしは聖都に行きたくないの」
亜人が首を横に振る。
「言っておくけれど、何度でも同じことをするわよ」
と言う間に、もう腕のなかから抜け出そうとしている。亜人はさらに激しく首を振って、腕の力を強めた。なんだか楽しくなってきた。とはいえさすがにもう一度同じことをするのは勇気がいる。手や足は笑えるほど震えていた。
しばらく黙って亜人を見つめていたら、観念したように眉尻を下げて、かすかに首を縦に振った。「どこへ行きたいのか」と尋ねているようだった。
そう言われると、なにも考えていなかったことに気づく。どこがいいだろう。アウロラの意表を突く場所……彼女のやることを見届けられる場所。そうだ。
「王都よ。王都に連れていきなさい」
●
こうして、リュシエラは王都アヴァロンの旧市街に降り立ったのである。それからはなかなか大変だった。まず柄の悪い男たちに囲まれ、身ぐるみを剥がされそうになった。逃げ回っているうちに入り込んでしまったボロ屋では泥棒扱いされ、そこからまた逃げた先でついに捕まり絶体絶命になったところを、旧市街の住民たちに「巫女さま」と慕われる女性に救われて二年。その女性のもとで暮らすうちに、リュシエラはずいぶんと逞しくなった。
「リュー!」
近所に住む少年がリュシエラを呼ぶ。振り向いて、リュシエラはため息をついた。
「何度言ったら覚えられるのかしら。わたしの名前はリュシエラよ。馬鹿ね」
「わかってらい! けどそんなお姫さまみたいなたいそうな名前、おまえにゃ似合わねぇよ。リューで充分だ!」
「そう……言いたいことはそれだけかしら?」
腕まくりをしながら少年に近づく。ほとんど陽に当たったことのなかった肌は焼け、すっかり黒くなっている。手は荒れて、土で汚れていた。
「いっ!? ちょ、っと待て、話せばわかる! ……じゃなくて!」
少年は後退りしながら必死の形相で両手を振った。
「いいもの見られるぜ、ちょっと来いよ!」
「いいもの?」
早くはやく、と急かされて、リュシエラは駆け出した。
もうドレスの着心地は忘れた。いまはまえを走る少年と同じような貫頭衣に、自分で縫った服筒を身につけている。髪はまとめて布で覆っていた。この髪色がここでは目立って、危険だと知ったからだ。裸足で駆け回るから、足の裏には傷が絶えない。
だが、この生活に満足していた。
「ほら、あれ!」
少年が立ち止まったのは、旧市街と「麗しの王都」を隔てる門のまえだった。門といっても、ほとんど崩れている。積み上がった瓦礫の向こうに、なにやら仰々しい一団が見えた。
華やかな衣装の繍が眩しい。そのなかでひときわ派手に輝くのは、豪奢な金髪の男とその隣に立つ青みを帯びた黒髪の女性だった。
「かっこいいなぁー……そんで、綺麗だなぁー」
少年はうっとりとしているが、リュシエラにはその理由がわからなかった。
「だれ?」
「はあ!? おまえ知らねぇの!? まったくしょうがねぇなぁー」
やれやれ、と少年が肩をすくめる。もったいぶっている様子だったが、
「いいから早く教えなさいよ」
とまた腕まくりをすれば、少年は素直に応じた。
「あれが新しい王さまとお妃さまだよ」
「あれが……」
噂には聞いていた。国王が、その後継者たちが――アウロラが、死んだことを。支配者が変わり、時代が変わったことを。
だがこのとき、リュシエラはまだ知らなかった。
死んだはずのアウロラの生存が発表されたことを。その存在を求める者が少なからずいることを。
こののち、「アウロラ」はそこらじゅうで目撃されることになる。それはまさに、幻影の時代であった。
リュシエラは、首から下げた鍵を服の上からそっと触った。鉄の感触とともに、自身の鼓動をたしかに感じた。
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