「会いたかったわ」
と少女は言った。そしてリュシエラを抱きしめた。少女が身につけた絹服はやわらかかったが、首や腕や腰を飾る宝石が痛かった。
「アウロラ殿下、外にはお出にならぬよう申し上げたはずですが」
「待ちきれなかったのだもの。大丈夫よ、だれにも見られなかったわ」
アウロラ、その名もリュシエラは知っている。この国の王女の名だ。その王女が
「はじめまして、リュシエラ。わたくしはアウロラ、あなたの双子の姉妹よ」
と言ったので、リュシエラは自身の境遇を完全に理解した。
双子として生まれたがゆえに、自分は捨てられたのだ。生かされていたのは、利用価値があったからだろう。たとえばアウロラ王女の身に危険が及んだとき、身代わりとして置いておくことができる。
では――いまが、そのときなのだろうか。この少女の身代わりとして、自分は死ぬのだろうか。
それならそれでいいと思った。これまで生きてきた意味はある。どこかで安堵しながら、リュシエラはアウロラのあとについていった。
「入って」
と言われたのは粗末で妖しげな小屋だった(ただリュシエラの目にはそう見えただけで、実際には一般的な庶民の家より大きい建物であったことを補足しておく)。入り口に絵が描かれている。簡略化されているが、燕の巣だろう。毎年、春になると離れの軒先に同じものを見た。リュシエラはそれを、窓から眺めるのが好きだった。
なかに入るとさらに妖しげだった。ところどころ灯りで照らされた壁は、赤く塗られているらしい。二階建ての屋内に並ぶ部屋にはどれも扉がなく、赤い薄布で廊下と仕切られている。部屋の中心にはそれぞれ、その狭さには不釣り合いなほど立派な寝台が設置されていた。
「あまり見ないほうがいいわ」
とアウロラに言われた。
「あなたにはもう、汚いものを見てほしくないの」
その意味はよくわからなかった。アウロラは部屋に入ることはせず、玄関広間の長椅子に腰掛けた。手招きに応じてリュシエラも隣に座る。サイードは入り口から動かなかった。
「なにから話せばいいのか……」
アウロラは曖昧に笑って目を伏せたが、リュシエラにはとくに話したいことなどない。ただ、これからの自分の処遇についてははっきりさせておきたかった。
「だいたい事情はわかったわ。それで? わたしはどうなるの。あなたを生かすために殺されることにでもなるのかしら」
そう言ったときのアウロラの反応は意外だった。驚いたように目を見開き、リュシエラの両肩を掴むと、いまにも泣き出しそうに顔を歪ませたのだ。そして強く、リュシエラを抱き寄せた。
しばらくの間そのままで、互いになにも言わなかった。こういうふうにだれかに触れるのは、はじめてかもしれないと思った。
「……あなたは、生きて」
ぽつりと、呟くような声が耳もとで聞こえた。
「あなたはどうかおだやかに、苦しまずに生きて」
今度ははっきりと言葉にしてから、アウロラは体を離した。自分と同じ顔がこちらを見ている。リュシエラは、瞬きもせずにそれを見ていた。
「あなたは聖都で清らかに暮らすの、リュシエラ。もういいの、なにも考えなくていいのよ」
そう言ってほほ笑まれたとき、リュシエラが感じたのは怒りだった。
「これからきっと、ひどいことがたくさんあるわ。でも大丈夫、あなたはわたしが守ってあげる。またつらい思いをさせてしまうかもしれないけれど……必要なことなの、許してね」
あまりに勝手な言い分だった。
死ねと言われたほうがまだ納得できた。
なにも考えなくていいのなら、それすら必要ないと言われるのなら、なんのために生きてきたのだ。なんのために生きてゆくのだ。実の親に捨てられたことがわかっていて、養家にも求めるものはないということがわかっていて、それでも自分なりに考えて、選んで、自らの意思であの場所にいた。それなのに。なんの意味もなく、哀れみだけで生かされていたというのか。今後もそれを強いられるというのか。ならばこの存在は。
この存在は、なんだというのだ。
まるで実在しない、まぼろしではないか。
リュシエラの胸中は、反論すらできないほど激しく渦巻いていた。「選ばれたほう」がそれを言うのかと、腸が煮えくり返る思いだった。
その沈黙を肯定と捉えたのだろうか。アウロラはほほ笑んだまま、リュシエラの頬を撫でた。
「リュシエラ」
それから自身の首もとを弄ると、服のなかから鈍く光るものを取り出した。どうやらなにかの鍵のようで、細い鎖を通して首から下げていたらしい。アウロラはそれを外し、リュシエラの首にかけた。
「わたしを覚えていて」
アウロラの指がリュシエラの手を取り、鍵を握らせる。手のひらにアウロラの体温を感じた。
忘れるものか。
この屈辱を、悔しさを、忘れてなどやるものか。
生きてやる。だれかに与えられたものではない、自分で選んだ場所で。抗って、見届けてやる。
自分が生きていることを証明してやる。
「アウロラ」
すべての感情を押し込めて出した声は、自分でも驚くほどやわらかく澄んでいた。
「あなたのことを忘れないわ」
それがどう伝わったのか。アウロラは目を瞑り、
「ありがとう」
と祈るように言った。
それが、最後に交わした言葉だった。
アウロラが立ち上がって入り口のほうに歩き出すと、代わりにサイードが寄ってきて跪いた。
「聖都アルク・アン・ジェまでの移動手段はご用意しております。このまましばしお待ちを」
それから数瞬、こちらを見上げ
「リュシエラ殿下。……どうかご息災で」
深く頭を下げてから立ち上がり、アウロラとともに出ていった。
と同時に、奥のほうから物音や声がする。注意深くそちらを見ていたら、やがて現れたのは緊張感の欠片もない女たちの顔だった。
「おはなしはおわりまして? お嬢さま」
先頭の女が首を傾げる。ゆるく波打つ豊かな黒髪に、瑠璃色の瞳を持つしなやかな美女である。いったいいつからそこにいたのだろう。まさかずっと、話を聞かれていたのだろうか。だとしたらさすがにまずいような気がする。
ところが美女はリュシエラの懸念などくだらないとでも言うように、艶やかに笑った。
「ご心配なく。わたくしたち、面倒な話は聞かなかったことにする主義ですの。ですからあなたさまのことはお嬢さま、と呼ばせていただきますわね」
堂々とした物言いにはけっこう好感が持てた。
「あなたは?」
「ご覧のとおりただの妓女ですわ」
「妓女……?」
「殿方たちに一夜の夢をご提供するお仕事。まあ、つまりは体を売って生活しておりますの」
体を売る、とはどういうことだろう。彼女自身が売買の対象になるということだろうか。では彼女は、
「……奴隷なの?」
「うーん、似ている部分もございますかしら。でも、ちょっと違いますわねぇ」
違うらしい。あの屋敷のなかで本から得た知識は多いと思っていたが、どうも知らないことはまだいろいろとありそうだ。
「おわかりにならないなら、きっとそのままのほうがよろしいわ」
「なぜ?」
「そういうことを知らなくても生きていけるのなら、そのほうが」
「でも知ったら、あなたともっと話ができるわ」
そう言うと、美女はすこし鼻を鳴らしたようだった。
「知ってもそう言えるなら、そのときはたくさんおしゃべりいたしましょう」
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