結局、義姉の提案した「お出かけ」は、アウロラの意思とは関係なく実施されることになった。といっても、国王の狩猟に同行することになっただけである。
狩猟は、もちろん食糧を得るために欠かせないものではあるが、この時代、王侯貴族にとっては娯楽であると同時に軍事演習の場でもあった。ゆえに本来、女には縁のないものなのだが、アウロラは将来玉座について軍を動かす立場になるため、その勉強を兼ねて同行することになったのだ。
当然のことながら、この遊びは国内が安定していないとできない。久々の狩猟に宮廷はおおいに盛り上がり、せっかくだから国力を誇示しておこうということで、計画を立てるうちにどんどん規模が大きくなって最終的には一大イベントとなった。主だった宮廷人はすべて参加、さらにその妻や娘まで同行し、楽団や芸人も引き連れてのおそろしく華やかな狩猟は、実際、景気づけにはなった。
ただ、これが王国滅亡まえの最後の煌めきであったことは、どの資料を見ても明らかである。そしてこの遊びの場で起きた事件をきっかけに、滅亡へのカウントダウンは一気に加速してゆくことになる。
ところで、この狩猟の準備期間に、もうひとりの美女の存在が王侯貴族の間で話題になっていた。なんでも身元のわからない、だが立ち居振る舞いが大層見事な娘で、半年ほどまえからときおり小さな集まりに顔を出すのだという。その美女がこの狩猟に姿を現すかもしれない。宮廷はその噂で持ちきりだった。
その中心にいたのは、サイードである。実はこの美女、サイードが面倒を見ている者であった。そういえばいつだったか、身寄りのない娘を引き取ったというようなことを聞いたかもしれない。
「とかなんとか言いながら、本当はおぬしの側女なのではないか?」
と、興味津々といった様子でサイードに訊くのはベルナールである。アウロラはそれを横目で見ていた。
「まさか。さすがに孫ほどの年齢の娘をそのような目で見ることなどできませぬ」
サイードが答える。
「ほう、いくつなのだ?」
「十八くらいではないかと」
「たしかに若いな。だがそのくらいの娘を囲う老紳士など珍しくないではないか」
とベルナールが詰め寄ったところで、アウロラは口を挟むことにした。
「サイードはあなたとは違いますのよ、ベルナールさま」
周囲から笑いが起こる。
いまは、政務の合間のなにげないひとときである。だからアウロラも、ベルナールに嫌悪の視線を向けるようなことはしない。ちょっとむくれた子どもらしい顔でそう言えば、ベルナールも
「アウロラどのは手厳しいな」
と朗らかに笑った。
人の目があるときには、ふたりはそういうほほ笑ましい関係を演じている。実際には読者諸氏のよく知る険悪な仲なのではあるが、それを把握しているのはサイードくらいである。
「だがな、アウロラどの。私はサイード卿とは違って、若い。まだ二十六になったばかりだ。つまり、その娘とは似合いの年ごろというわけだな」
「もう……お好きになされば? だれにでもそういうことをおっしゃって。そのうち世界じゅうの女性から無視されるようになりますわよ」
「それは嫉妬かな? アウロラどの」
「知りません!」
また笑いが起こった。心底おそろしい男だ、とアウロラは思う。人心を掴むのが上手い。最近では、ベルナールをアウロラの夫にとひそかに望む声もあるくらいである。他民族との血の交わりを徹底的に避けてきたパルカイ民族のなかにあって、である。
「しかし気になるな、その娘。名はなんというのだ?」
ベルナールがサイードに向きなおった。
「それが……わからぬのです」
「なんと」
「事情を聞いても、忘れたというばかりでござる。それが本当なのか信用されていないのか……あの娘を引き取ってもう二年目になりますが、どうにも未だ壁があるようで」
どよめき、哀れむような視線がサイードに向けられる。
「ただ、ひとつだけ、手掛かりになるやもしれぬものがございましてな。娘が肌身離さず持ち歩いているものなのですが」
「それは?」
ベルナールが身を乗り出した。
「瑠璃玉の飾りのついた、象牙の櫛でござる。ベルナール殿下」
そう言って、サイードが新緑色の目を見たその瞬間。ベルナールの表情が変わったのを、アウロラは見ていた。
気づいたのは、アウロラとサイードくらいだったろう。次に瞬きをしたときには、ベルナールはいつもの軟派な表情に戻っていた。
なにか心当たりがあるのだろうか。反応を見るに、なにかうしろめたいことがあるに違いない。アウロラは軽い気持ちで、サイードに言った。
「ねえ、サイード。わたくしもその方にお会いしてみたいわ。気が向いたらぜひおいでになって、とお伝えして」
「ありがたいお言葉でございます、殿下。必ず申し伝えます」
このとき、こんなことを言わなければよかったのかもしれない。ベルナールの反応をもっとよく見ておけばよかったのかもしれない。
アウロラは後悔することになる。このミステリアスな美女の正体に気づけなかったことを。
美女の本名は、結局現在に至るまで解き明かされていない。ただ、彼女の持ちものから連想したのか、それとも伝説となるほどのその美貌を讃えたのか、当時の人々は彼女をたいへん美しい愛称で呼んだ。
『瑠璃姫』
それが、いずれ新たな時代を築くことになる、彼女の「名」である。
●
狩猟の日。快晴だった。
森を、野原を、男たちが歓声を上げながら駆けてゆく。アウロラはそれを、父王の傍で見ていた。ときおり、父王から指示が飛び、それをもとに特定の数人が指揮を執る。まさしく、軍事演習であった。
男たちが連れてきた妻や娘たちは、遠巻きにそれを眺めて談笑している。話題の「瑠璃姫」もその場にいるらしいのだが、アウロラはずっと男側にいて動けず、顔を見ることすらできずにいた。
「それ、追い詰めますぞ」
と狩りには参加しない老臣が説明してくれるが、退屈なだけである。普段は相手をしてくれる兄王子アレクシスも、ベルナールを誘って行ってしまった。それには客人をもてなす意味もあるからしかたのないことではあるが、あのいけ好かない金髪男に兄を取られたような気分である。
だいたい、疲れるのだ。ひときわ華麗なドレスで着飾って、慣れない乗馬。駆けるわけではなく横乗りになっているだけだが、それでもつらいものはつらい。せっかく秋の野に出ているのだから、こんなむさ苦しいことはやめて、色づく草木や小さな実りを愛でていたいものである。
そうしてアウロラが欠伸を噛み殺していたとき、その事件は起きた。
「陛下! 殿下!」
と、どこからか悲鳴が上がった。振り向く。
大きな牡鹿が、こちらを目掛けて突進してきていた。
その凄まじい速度と迫力に、慄くことしかできない。だれかがなにか言っているが、理解できず、指一本動かせなかった。
こわい。
「殿下!」
おそらく、アウロラを救おうとしたのだろう。だれかが牡鹿を狙って、矢を放った。だが、彼は焦りすぎていたのかもしれない。
それが、仇となった。
矢は牡鹿の頭上を過ぎ、アウロラの乗る馬の鼻先を掠めて足もとに突き立った。
嘶き。
また、悲鳴。
それが周囲から上がったものなのか、自分のものなのか、もう、わからなかった。
大きく揺れる。手綱を握る。しがみつく。景色が、次々と通り過ぎてゆく。
アウロラは、馬の扱いも知らずに、横乗りのまま疾駆していた。ぎゅっと目を瞑る。こわい。
落ちる。落ちる!
――おにいさま。
そう、胸のなかで呼んだとき。
「アウロラ殿下!」
なつかしい声が、聞こえた気がした。
ふわり、と風に乗ったのは、香油だろうか。未婚の女性が好む、華やかだが清楚な香り。
女性? なぜ?
うっすらと目を開ける。濃い青色のドレスが、視界の端に翻っていた。
「アウロラ殿下! どうか手綱を放さないでくださいませ! いま参ります!」
凛とした玲瓏な声。この、声。ずっと聴きたかった、この声。
でも、なら、この女は。
「アウロラ殿下!」
すぐ、そばに。馬を駆る、このひとは。
思わず。
手を、伸ばした。
夢なのかもしれない。
しっかりと抱きとめてくれる、この腕は。
まぼろしなのかもしれない。
巧みに馬を操り、宥める、この姿は。
でも、
「失礼いたしました。お怪我はございませんか、殿下?」
もう、それ以外、なにも見えない。
なにが起きたのかは、よくわからなかった。気づけば、アウロラは黄金に色づく秋の野に降り立っていて、跪き低頭するそのひとを眺めていた。わずかに乱れたまとめ髪に、櫛が挿してある。
瑠璃玉で飾られた、象牙の櫛。
「あなた……あなたが、〈瑠璃姫〉……?」
声が震える。
「はい。畏れ多くも、そのように呼んでいただいております」
相手は低頭したまま、答える。青みを帯びた黒髪が、陽に照らされて輝いている。濃い青色のドレスが、風に靡く。
「お顔を……お顔を、見せて?」
消え入りそうな声に、相手は応えた。
ゆっくりと。こちらを見た、その顔に。
アウロラは、言葉を失った。
エヴェルイート=レンス=ジェ=ブロウト。
かつて、アウロラの許嫁であったそのひとが――そこに、いた。
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