足を動かすたびに、大きく広がった裾がバサバサと音を立てて絡みつく。だがそんなことは気にもせずに、少年は慌ただしく人や物が行き交う城内を駆け抜けた。
「花梨!」
教えてもらった部屋の扉を開け、飛び込む。
「先生」
そこには、肩に包帯を巻いて寝台に腰掛ける花梨と、ウリシェがいた。
「どうしたの、かわいい恰好して」
「うん、ちょっとね」
山瑠璃いわく「めったにない大舞台」に出る少年のために用意された衣装は、どう見ても女物だった。慣れない着心地にぎくしゃくしながら、花梨のそばに駆け寄る。
「花梨、痛い?」
「そりゃあね。でも矢は抜いてもらったし、ちゃんと手当もしてもらったから」
そっと手に触れてみた。熱い。きっと熱があるのだ。なのに、花梨はいつものように明るく笑っている。
「……ごめん。おれ、なんにもできなくて」
「やっだー、なーんであんたが謝んのよ! 応急処置してくれたでしょ!」
「でも」
と続けようとしたところを、ふわりと片手で抱きしめられた。ぽん、ぽんと頭を撫でられると、身動きが取れない。それどころか言葉まで封じられて、少年はされるがまま、花梨の胸にその身を預けていた。鼓動が聞こえる。熱い。――あたたかい。
「だれのせいでもないよ」
ぽん、ぽん。一定のリズムで頭に触れる手が、妙にせつなかった。このまま、こうしていたかった。だが少年には、花梨に告げなければならないことがあった。
「……あのね、花梨」
「んー?」
「これ、持って。先に行ってて」
花梨の手が、止まった。鼓動が、体温が、離れてゆく。それを追いかけるように、握りしめていたものを押しつけた。
「地下水路の地図。本当はアイザックが先導するのがいちばんいいんだろうけど、あのひとユライのそばから離れたくないんだって。だから、花梨にその役お願いしたいって。怪我してるからあんまり無理させたくないんだけど、でも」
「あんたは?」
呟くように、花梨が言う。
「あんたは。みんなは。一緒じゃないの」
「……うん。でも、すぐ追いつくから」
花梨の手が肩に触れた。掴まれた。もう、見上げる顔に笑みはなかった。
「なんで」
「ちょっと残って、やらなきゃいけないことがあるから」
「なんであんたがやらなきゃいけないの」
「…………」
答えられなかった。
「ダメだよ」
痛いほどに、掴まれた。
「絶対だめ」
その目を直視できなくて、うつむいた。
「……大丈夫。そんなたいしたことはしないから」
「じゃあやらなくていいでしょ。みんなで一緒に逃げればいいでしょ」
強い、声。けれど、震えた声。
もうそれ以上は無理だった。花梨の手を引き剥がし、顔を見ないようにして扉まで駆けた。それからすこしだけ振り返り、
「ウリシェさん。お願いします」
と頭を下げた。そのまま出て行こうとしたところに、
「少年」
ウリシェの声だった。
「だれかがやらなければいけないことなんて、ひとつもない。それでもやると決めたのなら、やりなさい。ただ、だからといって最後までやり遂げなければならないなんてこともない。あなたにとってあなたは、あなたでしかないのだから」
言葉を返すことはできなかった。床を見ながらもう一度頭を下げ、部屋を飛び出した。
駆けた。駆けても駆けても、その感覚はどこまでも追いかけてきた。
こわい。どうしてあんなことを言ったのだろう。やっぱり無理なんじゃないのか。
こわい。
少年は、自分が勇者ではないことを知っていた。だからこそ、なにかをしなければならなかった。まだ死にたくなくて、この先も一緒にいたくて、でも、ただ逃げるだけでは簡単に諦めてしまいそうで。
あんなことを言ったのに、もう、諦めてしまいそうで。
駆けて、振り返らずに駆けて、通用門のまえまでたどり着くと、少年はそこで立ち止まった。きらびやかな衣装が並んで風に靡いている。これから「大舞台」に挑む共演者たちが、少年を待っていた。
「お待たせ」
息を切らしながら、笑う。
「花梨にちゃんと伝えられた?」
山瑠璃が、乱れた帯を整えてくれた。
「うん。大丈夫だよ」
「ほーんとにぃ? アンタの大丈夫は信用できないのヨ」
「は? 大丈夫ですー。大丈夫すぎてやばいくらいですー」
七星に言い返す。大丈夫。
大丈夫だ。
「……ねえ、先生。やっぱりあなたは」
と言いかけた山瑠璃の口を、両手で塞いだ。
「大丈夫だって。おれにもちょっとくらい恰好つけさせてよ」
もう何度も聞いたから、彼女の言いたいことはわかっている。そのとおりにすれば――花梨と一緒に行けば、きっといまよりは安らかな気持ちでいられるだろう。けれど、それではこの足は止まってしまうから。転んだら二度と立ち上がれなくなりそうだから。いまはあのあたたかい手を、振り払うしかなかった。
山瑠璃はしばらく目を瞬かせてから、
「そうね。期待してるわ」
とほほ笑んだ。少年も笑みを返し、黙ってその様子を見ていたユライのほうへ顔を向ける。
「それじゃ……ユライ、さま」
「もうユライでいいよ」
「じゃ、ユライ」
「もうちょっと考えたりしない? ねぇ」
ユライとアイザック、ニコの三人はそれぞれ馬を従えている。少年や山瑠璃、七星はそれらに同乗させてもらい、「観客」のところまで移動する手筈になっていた。
「よろしくお願いします」
少年がそう言って見上げると、ユライは静かに松明を手に取った。出発するまえに、ひとつ、やっておくことがある。それは、この舞台の成功を左右する、大掛かりな演出の仕掛けだった。
「覚悟はいいね」
ユライの言葉に、ゆっくりと頷く。
神さまなんて知らない。だから、少年は自分自身に願った。
この臆病な心に。自らの未来に。どうか。
炎を。
「炎を」
炎を灯せ。
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