顔を洗って、念入りに髪を梳く。選んだドレスは真紅。金糸の刺繍が施された飾り帯に、色とりどりの宝石が連なる細い金のベルトを重ねる。長い髪はあえて結わずに、少量の香油でより艶やかに流して。その上に、繊細なチェーンで金剛石を繋げた髪飾りを置いた。唇は、紅などささずともじゅうぶんに紅い。
身支度を終え部屋を出たアウロラは、義姉ティナや女官たちを伴って控えの間に向かった。
ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように、歩く。
いつだったろう。女官の目を盗んで部屋を抜け出し、あのひとのもとへ駆けていったのは。いつからだろう。無邪気に駆け回ることをやめたのは。躓いて転ぶ恐怖を、知ってしまったのは、いつだっただろう。
なにがいけなかったのかなどと、考えるのはもう、やめた。きっと最初から、すべてが駄目だったのだ。けれどそれに気づかぬふりをすることができず、真実を求めたのは自分だ。
偶然得たエヴェルイートの秘密を利用して、サイードに白状させた。自身が双子だと知ったときの、絶望は忘れない。それでも、どうしても理由が欲しかった。父母に愛されない理由が。それならばしかたないと、納得するだけの理由が欲しかった。
絶望と同時に、安堵したのもまた事実だ。自分が悪いわけではない。生まれ落ちたときすでに汚れていたのなら、それはきっと自身への罰はない。ならばこれは、だれの罪だというのだろう。だれのせいでこんな思いをしなければならないのだろう。
なぜ、あのひとは神子で、自分は忌み子なのだろう。
アウロラはずっと考えていた。アウロラの誕生日、四月二十七日は、奇しくもウルズ王国建国の日でもある。であるならば、自分はこの国の、パルカイ民族の罪を背負って生まれてきたのではないか。ここで終わらせるべきだと、そう、神は仰せなのではないか。大切なひとたちを、解放してやるべきだと。
神子のもとへ、還すべきだと。
自分の命ごと、この国を消し去ったあとは、神子であるエヴェルイートにすべてを捧げるつもりだった。だから、ベルナールに頼んだのだ。あのひとを守ってほしい、と。
異国の者とはいえ奉ずる神は同じである。神子を無体に扱うことはないだろう。そう思ったからこそ、ベルナールにはエヴェルイートの秘密も打ち明けていた。その事実があれば、ベルナールがウルズ王国に手を出す正当な理由もできる。つまり、本来法王と仰ぐべき神の代理人を秘匿し、あまつさえ王女と番わせようなどという瀆神的な国に制裁を加え、神子を救い出すという理由が。
俗世の支配者であるヴェクセン帝国と、信仰の中心であり、どの国にも属さない聖都アルク・アン・ジェは、その歴史上あまりよい関係とはいえない。だからこそ、この宗教の成立に深く関わり、「教えと信徒の守護者」として「皇帝」の称号を聖都から授かっているヴェクセン帝国にとって、これは非常に魅力的な誘いとなるはずだった。
必ず乗ってくると確信し、話を持ちかけた。実際、ベルナールはアウロラの思ったとおりに動いてくれた。ある一点を除いて。
おにいさま。
わたしの王。
わたしの救い。
わたしの神さま。
あなたさえ見ていてくれるなら、それでよかった。
けれど、それさえも叶わぬというのなら。せめて。
控えの間が、見えた。扉のまえで、祈った。女官が、扉を開けた。
そのすべてが、なぜだか懐かしく思えて、アウロラは一度、目を閉じた。
「アウロラ内親王殿下のご到着でございます」
女官の声が響いて、アウロラは目を開けた。予想以上の人数が、頭を垂れていた。そのなかにひとり、堂々と顔を上げている金髪の男。
「ごきげんよう、みなさま。今日は一段とよい朝ですこと」
「よき一日のはじまりを、お喜び申し上げます、殿下」
一歩進んで挨拶すれば、全員が低頭したまま返事をする。それでもやはり、あの男だけは揺るがない。
「おはよう。昨日はぐっすり眠れましたか?」
「おはよう、よいお天気ね」
「おはよう。今日もお元気そうでよかったわ」
そんな言葉を一人ひとりにかけながら、顔を上げさせてゆく。
「まあ、アレクシスお兄さま! こちらにいらっしゃったの」
その途中で、みなに隠れるように頭を下げていた兄王子を見つけた。
「もう、言ってくだされば真っ先に声をおかけしたのに」
「それは駄目だよ、ローラ。しきたりを破ることになる」
「でも、これではまるで、わたくしが意地悪な子みたいだわ」
「おや、違うの?」
「もう! お兄さま、ひどい!」
笑いが起こる。ああ、ここまで来て、演じることをやめられない。
好きだったのだ、本当に。このあたたかい国が。この国で生きる人々が。たとえだれも、本当の自分を見てくれなくても。
好きだった。
視線を移した。まだ顔を上げていないのは、ただひとり。
そのひとは、今日もやはり、青色のドレスを着ている。ふわりとゆるめに結い上げた髪に、瑠璃玉の飾られた櫛が挿してある。改めて思う。髪が、伸びた。
頑なに男であろうとしていたこのひとが、髪を伸ばした理由はなんだ。こうしてドレスを身に纏い、女にしか見えない振る舞いをする理由はなんだ。このひとを変えたものは、なんだ。
「彼女」の隣に立つ、男を見た。男はただ、やさしげにほほ笑んでいた。
「……おはようございます、ベルナールさま。よくお寝みになれましたか?」
「ああ。あなたこそ、お加減はよろしいのか、アウロラどの?」
その言葉にも、棘はない。純粋にアウロラを気遣うような声音。
「ええ……そちらのご婦人のおかげで、怪我もございませんでした」
アウロラは、ベルナールをそれ以上直視できなかった。かといって、未だ低頭したままの「彼女」を見つめる勇気もない。しかたなく床に視線を落としながら、言った。
「わたくしの命の恩人に、まだお礼も言っていませんでしたね。……どうぞ、」
お顔を上げて。
たしかに自分の口から出たその言葉を、他人事のように聞いていた。
違う。やめて。顔を上げないで。見ないで。
わたしを見ないで。
……願いは、届かなかった。そのひとはゆっくりと顔を上げ、アウロラを見た。
それで、わかった。もう戻らないのだと、わかった。
「あなたの勇気に」
おにいさま。
「感謝いたします」
おにいさま。
「どうか……」
おにいさま。
「仲よくしてくださいね」
置いていかないで。
「殿下のお心、ありがたく頂戴いたします」
と答えたその声は、まるで別人のようだった。表情豊かだった瞳は静かで、唇にわずかな笑みを浮かべるのみ。アウロラの愛した光は、どこにもなかった。
「……みんな、あなたとお話をしたがっているわ。独り占めするのはやめておきましょうね」
アウロラは笑った。それに応えて、みなが笑った。
うるさい。
耳を、塞いでしまいたかった。ひとりになりたかった。けれどみな、ぞろぞろと集まってきて、餌を求める小鳥のように盛んに鳴く。アウロラはほとんど条件反射でそれらの声に答えながら、床だけを見ていた。
うるさい。雑音が多すぎて、なにも聞こえない。いや、聞いている、のだろうか、自分は。わからない。どうしてこんなところにいなければならないのか、わからない。こんなの、おかしい。 狂ってる。
こんなの、いらない。
揺れたアウロラの目が、だれかの身につけた短剣を捉えたとき、
「よい機会だ。お集まりのみなさまにご報告しておこう」
その声だけが、やけにはっきりと耳に響いた。
「実は近々、結婚しようと思っていてな」
ベルナール・アングラード。
「……このひとと」
異国の大公が、パルカイ民族ですらない余所者が。
アウロラの神子の肩を、抱いていた。
叫んだ。
さっき目にした短剣を奪い、振りかぶった。その先に、青いドレス。美しい、過去の幻影。
わたしのものになって。
わたしだけを見て。
わたしと一緒に生きて。
せめて、――来世で。
すべてを捧げるつもりで、刃を振り下ろした。それなのに。
それすらも、届かなかった。
剣身は、青いドレスではなく、それを守るように覆いかぶさった男の腹に突き立った。
「ベルナール殿下!」
悲鳴が上がる。血が流れる。アウロラの手を、紅く染めてゆく。
だれかがアウロラを呼んでいる。だれかの手が迫る。その手に捕まるまえに、駆け出した。紅いドレスが、重い。それでも、走った。
「ふふ……」
楽しい。
「うふふふ」
むかしに戻ったみたい。
「あははははは!」
なんだ、まだ、走れるんじゃない。
――……よかった。
いつか、躓いた回廊を。
こっそり落書きした柱を。
過ぎ去った遠い日々を、アウロラは、駆けた。
朝陽が、眩しかった。やがて目がくらんで足が縺れたとき、追いかけてきた複数の男たちに取り押さえられた。
逃れようともがきながら、触れたその体温に、ただ、安堵した。
●
六二三年、十月二十八日。
この、ウルズ王国第一王女アウロラによる傷害事件は、ドラグニア小大陸の歴史を大きく動かした。
いわゆる「痴情のもつれ」だといわれている。真実は、だれにもわからない。とりあえず、当時のウルズ王国の人々は、先の狩猟での一件をヴェクセン帝国の陰謀だと主張し、この傷害事件は当然の報いであると言い張った。そしてもちろん、ヴェクセン帝国も黙ってはいなかった。
いよいよ、戦争がはじまろうとしていた。
それに先立って、ウルズ王国内で暴動が起きた。場所は、港湾都市カルタレス。西の要所が、まず揺れた。
アウロラは、幽閉された状態でそれらのことを知った。
乾いた風が吹いた。
冬が、近い。
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