「……どういうことですか?」
アヴァロン王宮、迎賓殿。その一角、ヴェクセン帝国大公ベルナール・アングラードに充てがわれた客室で、瑠璃姫は困惑した声を上げた。
前方には武装したパルカイの男たち、背後には寝台に横たわる「婚約者」。扉は完全に塞がれ、逃げ場がない。
「ご理解いただけませんでしたか。ではもう一度、申し上げます」
兵士たちのまえに立つ、絹服の官吏らしき男が言う。
「あなたがたを、これより拘束いたします」
「理由をお聞かせください。でなければ納得できません」
繰り返された宣告にも怯むことなく、瑠璃姫は冷静に男を見つめた。瑠璃姫には、男の行いの是非を判断することができない。なにしろ、ベルナールは正真正銘、敵国(もはやこう表現してよいだろう)の人間だし、瑠璃姫は自身が何者であったかを把握していないのだ。だからこそ、理由が知りたい。もし過去になにか罪を犯していて、そのことをいまこの身に問われているのなら、それはそれで事実として受け入れるつもりだった。だが、
「理由はご自身と、婚約者どのにお訊きしたほうが早いのでは?」
男は取り合ってくれなかった。
しかたなく、視線を背後に移す。さすがに青白い顔をして横になっているベルナールは、しかしうっすらと笑みを浮かべてこちらを見ていた。顔色が悪いのはこのやり取りのせいではなく、腹部の負傷のせいだろう。非力な少女の残した傷は急所にこそ至らなかったものの、かといって油断できるようなものでもなかった。なのでおとなしく寝ていてもらいたかったのだが。
「心外だな」
案の定、瑠璃姫の「婚約者」はゆっくりと上体を起こして不敵に笑う。その眉が一瞬、ピクリと動いたのを、瑠璃姫は見逃さなかった。あの日から半月ほど経ってはいるが、まだつらいはずだ。傷口を縫うときですら呻き声ひとつ上げなかったこのひとのことだから、きっとやせ我慢しているのだろう。小さくため息をついてから、汗ばむ背中を支えた。
「この正義と愛の使者たる私の、どこに咎められるようなところがあるというのだ?」
ベルナールの茶化すような態度に刺激されたのか、官吏は片頬を引きつらせてややくぐもった声を出した。
「春の一座というものをご存じで?」
「知っている、旅芸人を名乗る無法者の集団だろう。我が国ではもう長いこと手を焼いてきたが、近ごろは貴国でもずいぶんと勝手な振る舞いをしているらしいな」
「これはまた……白々しいお答えをどうも」
ベルナールと官吏の冷えた会話を聞きながら、瑠璃姫は胸のうちがざわつくのを感じていた。春の一座。なぜだろう、その芸人の集団とやらに、どこかで会ったことがあるような気がする。会って、なにか。なにか、強い衝撃を受けたような。
「で、それがどうしたというのだ」
ベルナールがそう言うと、官吏は
「その春の一座を使って、あなたは我が国を乗っ取ろうとしている。違いますか?」
試すように目を眇めた。
瑠璃姫は息を呑んだ。ベルナールを見る。笑っていた。
「ほう……貴国にもまだまともに考える力が残っていたのだな」
と、こめかみを指で叩く。返答にはなっていないが、認めたも同然の発言だった。
「……悪あがきはもうおしまいですか」
「否定はせぬよ。だが私を招き入れたのはあなたがたではないか」
どこかで、否定してほしいと願っていた。そんなことはないと言ってほしかった。でも、なぜそう思うのか、瑠璃姫にはよくわからなかった。苦しい。それが不思議で、苦しい。
ベルナールが、瑠璃姫の手を取った。まるで、謝るように、そっと。
「愚かだな、パルカイの民よ。現実を見ようとせず、過去の幻影ばかりを追いかけてきた、これが報いだ。未だ状況が目に入っておらぬだろう。私をどうこうしたところで、流れは変わらぬぞ」
「なに……」
「教えてやろうか。カルタレスを襲った竜は、我が国のものだ」
心臓が跳ねた。その言葉に反応したのは、瑠璃姫や官吏たちだけではなかった。
パキン、とどこかで音がした。
「つまりは、自作自演というわけだな。ああ、だが勘違いするな。あれは私の管轄ではない。皇帝が差し向けたものだから、私も被害者だ」
頭が痛い。鼓動が暴れる。なにか奥底からこみ上げてくる、これは――
「それにしても、よくぞここまで私を信用してくれたものだ。なかなか楽しかったぞ、そなたらの愚鈍な顔を眺めるのはな」
――怒りだ。
だめ。待って。
呼びかけたが遅かった。
パキン、とどこかで音がした。その瞬間、瑠璃姫の意識はその場から引き剥がされた。
聞こえる悲痛な叫びは、きっと「彼」のものだろう。ぼんやりと、「彼」の目を通してすべてを見た。
ベルナールの顔を殴る、自分の、いや、「彼」の手。何度も。なんども、繰り返し。
ベルナールは反撃しなかった。抵抗もしなかった。口の端が切れ、鼻から血が流れてもなお、黙ってそれを受け入れていた。
違う。待って。やめて。
必死に呼びかけても、瑠璃姫の声は届かない。そこにいるのに、手を伸ばせない。透明な壁が、すべてを遮断してしまう。
やがて我に返った兵士たちに取り押さえられるまで、それは続いた。声を上げて笑うベルナールと目が合ったのを最後に、瑠璃姫の瞳は閉ざされた。
●
真っ暗だった。
いつもの蒼い景色はない。ただひたすらに、広がる暗闇。そのなかを、歩いた。
進んでいるのか、戻っているのかもわからない。空っぽの空間に、自分だけが浮いている。なんの感触も、音も、においもない。意味もわからない。ただなぜか、歩かなければいけない、そんな気がした。
歩いて、歩いて、歩いた。その先に、「彼」がいた。立っていた。
水晶の棺は見当たらない。「彼」がまだ、起きているということだろうか。ではこれは「彼」の世界なのだろうか。このなにもない暗闇が。
「彼」の目に、瑠璃姫は映っていないようだった。それでも、問いかけた。
……泣いているの?
返事はない。「彼」はただ立ち尽くして、涙を流していた。それを拭うこともせず。声を上げることもなく。ただ、涙だけを。
悲しいのね。
問いかける。返事はない。
信じたかったのね。
問いかける。返事はない。
……好きなのね、あのひとのことが。
問いかけて、抱きしめた。返事はない。でも、触れた。触れられた。やっと、掴めた。
だったら、ちゃんと言わなきゃ。大丈夫。逃げちゃだめなんて言わないから。いやなことは全部引き受けてあげるから。だからお願い。あなたのことを教えて。
あのひとのためにも。
すこしだけ、「彼」がこちらを見たような気がした。それを確認するまえに、まぶしい光が瑠璃姫を包み、なにも見えなくなった。
そしてまた、パキン、とどこかで音がした。
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