それで、そのまま眠ってしまったらしい。気づけば、一面の蒼だった。
また、ここ。
蒼い空の下、その色を写し取ったかのような蒼い花が、地面いっぱいに咲いている。その向こうに、蒼い稜線。左右も蒼い山に囲まれ、見上げればその頂は、やはり蒼い雲を纏っている。吹き渡る風さえ、蒼い。
そのなかを、瑠璃姫は歩いた。行き先は決まっている。「彼」のところだ。そしてそれが遠くないことを、瑠璃姫は知っている。
ほどなくして、やはりそれは現れた。透きとおった水晶の棺。そのなかで、「彼」は眠っている。
起きないの?
問いかける。返事はない。瑠璃姫がここにいるときに、「彼」が目覚めたことはない。
聞いていた? 起きなくていいの? 答えなくていいの?
身じろぎすらしない。本当に死んでしまったかのように。
でも、瑠璃姫は知っている。「彼」――ベルナールやサイードや、きっとあの王女さまも求めている「本当のこの体の持ち主」は、まだちゃんと生きている。その証拠に、稀に突然起き出して瑠璃姫を困らせるのだ。今日のように。
王女さまを助けたのは、あなたでしょう?
そういうことができるのは、「彼」のほうだ。というより、そういうときしか起きてこない。
それほど、大切に思っているひとたちがいるはずなのに。こんなに、大切に思われているのに。
もう、会えなくてもいいの?
問いかける。返事はない。けれど、瑠璃姫は知っていた。「彼」がまだ生きることを望んだから、自分が生まれたのだということを。だとしたら。もう会えなくてもいいなんてことは、絶対に、ない。
「彼」に、なにがあったのかは知らない。「彼」の生きてきた世界を、瑠璃姫は知らない。
なにを見てきたのか、なにを感じてきたのか、なんと呼ばれていたのかすら、知らない。
棺に手を当て、覗き込む。深く眠る「彼」の顔。棺に映る「瑠璃姫」の顔。同じ体を共有する、ふたつの心。
ある日を境に、割れてしまったひとつの魂。
もし、神の教えが本当なら、これは、「彼」の犯した罪に対する罰なのだろうか。
あなたはなにをしたの?
問いかける。返事はない。
なにをおそれているの?
問いかける。返事はない。
あなたは――わたしは、だれなの?
だれかが、答えた。
呼んでいる。その名を、呼んでいる。
失われた名を、呼んでいる。待って。
待って。
もう一度、ちゃんと聞かせて。
声を追って、走る。近づきたい、そう願うほどに、風が強く吹き荒れる。聞こえなくなる。見えなくなる。やがて風は、瑠璃姫をその空間から押し出して。
そしてまた、パキン、とどこかで音がした。
●
「……大丈夫か?」
と軽く頬を叩かれて、目が覚めた。鼻と鼻が触れるほどの距離に、ベルナールの顔がある。
「……いま」
「ん?」
「いま、わたくしの名を、呼びましたか?」
そう訊くと、ベルナールはすこし寂しそうな顔をして、
「……いや」
と答えた。
「そうですか……」
「そういえば、いまは瑠璃姫と呼ばれているのだったな」
「はい」
「だれが呼び出したか知らぬが、なかなか悪くない名を考えたものだ」
ベルナールが瑠璃姫の髪に触れる。複雑に結い上げていたはずの髪は、いつの間にかほどかれていた。その一本一本を、ベルナールは愛でるように指で梳いてゆく。
「あの、わたくし、どれくらい眠っていたのでしょう?」
「一晩だ」
「もしかして、もう朝ですか?」
「そうだな」
ということは、つまり。
「わたくしは、殿下と一夜をともにしたということでしょうか」
「……言っておくがなにもしていないからな」
言いながら、ベルナールは寝台から離れていった。ため息と欠伸を同時に吐き出し、無造作に金髪を掻き上げる。
「なにかするとしたら、あなたの合意を得てからだ。正々堂々挑ませてもらう」
「そうですか。それはよかった」
心底ほっとした。「彼」の知らない間にこの身になにかあったら、申し訳ない。
「……本当に覚えていないのだよな?」
「はい。なのでひとつ質問しても?」
「なんだ」
「先ほどのお言葉と昨日の行動から推察するに、ベルナール殿下はわたくしに好意を持っていらっしゃるということでよろしいでしょうか」
これには、返答はなかった。とはいえ反応を見ればだいたいわかった。数秒、固まったベルナールはその白い肌を赤く染め、両手で顔を覆った。
「そうくるとは思わなかった……」
「わかりやすい反応をありがとうございます」
なるほど。ではこのひとは信用できる。たぶん。そしてそういうことならば、やはり瑠璃姫ではなく「彼」と話をしてもらいたい。そのためには、いろいろと情報が必要だ。
「もうひとつよろしいでしょうか」
「もうなんでも訊いてくれ……」
「わたくしは、殿下のことをどう思っていたのでしょう?」
しばし、沈黙。ゆっくりと手を下ろし、沈痛な顔を瑠璃姫に向けたベルナールは、自嘲気味に薄く笑った。
「どうだろうな……だが、忘れてしまいたいものだったということなのだろうな」
そして、逃げるように視線を逸らした。瑠璃姫には、それを否定することも肯定することもできない。なので、とりあえずいま導き出せる答えを口にした。
「つまり、恋人同士ではなかったということですね」
「ぐいぐい抉ってくるな、あなたは」
再びこちらに顔が向く。ものすごい勢いで。もしかして、言ってはいけないことだったのだろうか。まずかったかな、と思ったが、ベルナールはふっと表情を和らげ、
「まったく。容赦のないひとだ」
存外、楽しげに笑った。
「さて、元気なら、悪いがそろそろ起きてくれ。さすがにずっとあなたをここに置いておくわけにはいかぬのでな」
そういえば、まだ寝台に寝転んだままだった。よく考えたらかなり失礼な態度である。だが不思議と安心してしまって、体に力が入らない。
「どうした?」
「いえ……なんだか、心地よくて。起き上がれません」
「なんだそれは」
とまた笑った。
「しかたがないな。……おいで」
そう言って、ベルナールは手を差し伸べる。そこまでされたら起き上がらないわけにもいかぬので、瑠璃姫は素直にその手を取った。ぐいと引っ張られ、そのままベルナールの腕のなかに収まる。
で。
「どうしました?」
そのまま動かないので、何事かと思い見上げると、
「いや……本当に来るとは思わなくて。動揺している」
と真っ赤な顔を背けていた。
どんな関係だったんだろう、このふたり。
瑠璃姫は、疑問に思わずにはいられなかった。
と、ここで、こういう雰囲気に耐えられなくなった筆者から、すこしご説明させていただきたい。
お察しのとおり、「瑠璃姫」はあのエヴェルイートで間違いないが、「失踪事件」のあとに生まれた別人格である。そしてこの設定は、言うまでもなく史実とは異なる(かもしれない)創作である。だからもう好き勝手に語ってしまうが、アウロラに殺されかけたエヴェルイートは、祖父サイードのもとで蘇生し、こうして宮廷劇の舞台に戻ってきた。ここに至るまでがけっこうたいへんで、肉体的にも精神的にもかなりのダメージを受けた最初の半年は廃人(言葉が悪くて申し訳ない)と化しており、その状況を脱するために「瑠璃姫」が生まれてからも、なにもわからない状態からの再スタートだったから満足に動けなかった。それで、ここまで出番がなかったのである。
サイードはこういう状態の孫のことを「無事だ」とは知らせることができず、カルタレスのヴェンデルはこの事実を知らない。かといって自分ひとりで孫を守りきるのは難しいと考えたサイードは、わざと「瑠璃姫」を人目につく場所に連れ出して人々の反応を見、そして、ベルナールを選んだ。
だからベルナールは、だいたいの事情を知っている。だが、言わない。そういうわけで、瑠璃姫との間には若干のすれ違いが生じている。
ではそろそろ、筆者の気持ちも落ち着いたので話を戻そうと思う。
とりあえず膠着状態から脱したふたりは、身支度を整えるために人を呼んだ。昨日、瑠璃姫が倒れてからずっとベルナールの部屋にいたことはアヴァロン王宮中に知れわたっており、顔を洗うための水や着替えを持ってきた女官には意味深な顔をされた。そそくさと退出してしまった彼女の様子に、瑠璃姫はなんとなくいやな予感を抱く。
「殿下、お尋ねしてもよろしいですか」
「ああ、なんだ?」
「そういえばわたくし、どうして殿下のお部屋にいたのでしょう?」
「私が運び込んだからだな」
「異国からのお客人である殿下が、突然パルカイの女を連れ込むのはいろいろと問題があるのでは?」
「案ずるな。あなたと私はもともと将来を誓い合った仲で、長年離れ離れになっていたがようやく再会できた……ということになっている」
洗顔を終え、早々と着替えたベルナールが、慣れた手つきで瑠璃姫の髪を梳きながら言う。ちょっと、意味がわからない。
「……わたくしたち、恋仲というわけではなかったのですよね?」
「そうだな」
「なぜそんな話に」
「それがあなたの身の安全のためにいちばんよかった。ちなみにサイード卿も共犯だぞ」
「旦那さまも?」
「あのときの我々の名演技を見せてやりたかったな。再現してやろうか?」
「けっこうです」
これはもしかして、なにかとんでもないことになっているのではなかろうか。瑠璃姫は、胸のなかで眠る「彼」に詫びた。そうしているうちに、ベルナールは器用に瑠璃姫の髪を結い上げ、大量の髪飾りをまえに「こちらのほうが似合うか……」などと首を捻っている。なぜ女性の髪を結うことができるのかも、なぜ髪飾りを持っているのかも、甚だ疑問である。
「とにかく、この状況は好都合だ。あなたはそう簡単に手が出せない存在なのだと、存分に知らしめることができるからな」
と、結局髪飾りをすべて放り出し、先ほどまで瑠璃姫の髪を梳いていた櫛をもう一度手に取る。花模様の彫刻と瑠璃玉で飾られた、象牙の櫛。瑠璃姫の唯一の持ちものであるそれをそっと撫でたあと、ベルナールはその手で結い上げた青く光る黒髪に挿した。
「というわけで、結婚しよう」
「は?」
いま、なんと。
「もちろん、正式に婚姻関係を結ぶつもりはない。これはあくまで、互いの身を守るための戦略だ」
髪飾りを片付けながら、明朗に言う。
「みなのまえで、婚約を宣言するだけでよい。なに、望まぬ関係を強いたりはせぬよ」
「ちょっといろいろとついていけないのですが、とりあえずひとつ訊かせてください。ヴェクセン帝国の皇族である殿下が、異国の地でそのように勝手なことをなさってよいのですか?」
「無論!」
翠眼が、燃えるように輝いた。
「私はいずれ皇帝となり、このドラグニア全土を統べる男だからな!」
その炎に、魅了されたのもつかの間。
「だから、殿下と呼ぶのはやめてくれ――我が皇妃よ」
その眩しい顔面を、なぜだか全力で殴りたくなった瑠璃姫であった。
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