アウロラ。たしかそれは、いまこの街に滞在しているという王女の名ではなかったか。次の国王になるという、ただひとりの王女の名ではなかったか。
「……ふたご?」
「そう、双子。あなた、わたくしたちの神の教えを知っていて?」
それは、知識として頭に入れてある。「ふたつにわかれるもの」を嫌う彼らの宗教では、双子は忌むべきものとされているはずだ。生まれてしまったら、たいていは一族郎党皆殺しだという。その、忌み子が、王家に生まれていたというのか。
では、リュシエラは、捨てられたのだ。その事実を隠すために。
「……察しがいいのね」
少年はなにも言わなかったが、王女はそう言って頷いた。
「双子が生まれて困ったわたくしたちの両親は、だれかに知られるまえに片方を処分してしまおうと考えたの。それを頼まれたのが、このサイードという男」
王女がちらりと背後に視線を向ける。サイードは、神妙な面持ちで立っていた。
「だけどね、このひとったらお人好しで。生まれたばかりの赤子を殺せなかったのね。だから、独断であの商人に預けたの」
あとは知っているでしょう、と王女が言い、少年もそれで納得したが、ここで、読者諸氏には筆者から種明かしをしておこうと思う。
王女が生まれたとき、サイードがカルタレスに帰ってきたことを、覚えておられるであろうか。そう、孫のエヴェルイートを王配候補として迎えにきた、あのときである。
あの日、サイードは「王女の誕生祝いを求める」という名目で商人ドーバンを訪ね、ひそかに赤子のリュシエラを預けた。「自分の隠し子だ。血の繋がりが露見するとまずいから、娘の顔はだれにも見られないようにしてほしい」とでも言ったのだろう。ドーバンは金さえ与えれば扱いやすい男で、言いつけを守り、秘密を漏らすこともなくその赤子を大事に育てた。ところがある日、仕事で王都に出かけたドーバンはアウロラ王女の顔立ちを知り、預かっている娘の正体に気づいてしまう。それをネタにして、大胆にもサイードに対して強請りかけたのである。
強請りに成功したドーバンは商売を大きくし、どんどん羽振りがよくなった。それを一応リュシエラに還元していたのだから、まあ、そこに彼なりの愛情はあったといえなくもないだろう。ときおりリュシエラに関する噂を自ら流したりして、しっかり商売に利用していたあたり、善い養父とはいえなかったが。
一方、強請られたサイードはそのことをアウロラに勘づかれ、こちらはこちらで脅される羽目になる。そして真実をアウロラに知られてしまい、いまに至る。
「そんなことはどうだっていいんです。お嬢さまはどこですか」
と少年が言うので、筆者からの種明かしはこれくらいにしておこうと思う。話を戻す。
少年の問いかけに、アウロラ王女は歌うように答えた。
「もうここにはいないわ」
「だからどこにいらっしゃるんだと訊いているんです」
「とても安全な場所に向かっているはずよ」
「生きておられるんですね」
それにはすぐに答えずに、曖昧に笑った。
「……殺してしまおうと思っていたの」
うつむく。
「邪魔になるから、殺してしまおうと思っていたの。でも、やめたわ。あの子は救ってあげるべき子だった」
「お嬢さまの平穏を壊したあなたがそれを言うんですか」
「平穏? 捨てられて、あんな養父に閉じ込められて、自由を知らない生活が、ふつうだというの? かわいそうだとは思わないの?」
「思いません」
少年はきっぱりと否定した。王女が歪んだ顔を上げる。
「たしかに、お嬢さまは哀しくて寂しい方です。でもそれを受け入れて、折り合いをつけて暮らしていた。あなたみたいに我儘じゃなかった。いやまあ、ちょっとは我儘も言われましたけど」
「……なら、あの子は一生あのままのほうがよかったとでも言うの?」
「お嬢さまは、それを望んでおられました。だから私も邪魔をしませんでした。お嬢さまが外に出たいとお望みになれば、なにがなんでもお連れしましたよ。けれど、あの方はあの家で、あの家の一員として生きることを望んだ」
「そんなのおかしいわ。あの子のためにならないもの」
「だから、そんなことどうでもいいって言ってるんですよ。それはあなた個人の意見で、ただの我儘だ。人が望んでもいないことを、その人のためだと言って押し通すことが善意だとでも思っているんですか? あなたはそうやって不満を解消して、自分が善人であると思い込みたいだけだ」
「あなたにわたくしのなにがわかると言うの!」
「わかりませんよ、あなたのことなんか。あなただって、他人他人のことなんかわからないでしょう。だったら、余計な手出しはするものじゃない」
王女に握られていた手を、払った。
「あなたは、美しくない」
吐き出してようやく、少年は自身が憤っていたのだということに気づいた。自分の言うことが、すべて正しいとは思わない。結局はこれも我儘だ。少年は、あのまま、美しい主人とともに生きていたかった。だが――置いていかれたのだ。
沈黙。
その間に、少年は悟った。きっかけはなんであれ、主人は新しい世界へ旅立った。そこに自分の居場所はない。自分の存在は望まれてはいない。ならば、自分も踏み出さねばならない。
互いに生きていれば、また会うこともあるだろう。
これ以上の会話は続かないと判断して、少年は歩きはじめた。とりあえず、この道を行けるところまで行ってみようか。そんなことを考えていたら、予想に反してうしろから声がかかった。王女の声ではない。低い男の声だった。
「その怪我で行くつもりか」
振り返る。
「ええと、サイードさま、ですよね。お気遣いいただきありがとうございます。でも、見た目ほどたいした怪我ではないので」
「馬鹿者。甘く見るな」
サイードが歩き出す。一歩が大きいな、と思った。すぐに少年のそばまでやってきたサイードは、驚くほどやさしい手つきで銀髪を撫でた。
「……たしかに傷口は深くはないが、放っておけるものではない。だがあいにく治療に使えるものがなくてな」
そう言うと、少年をその場に座らせた。
「このまま、ここで待て。すぐに助けが来る」
にこりともしない顔をじっと見上げる。
「なんだ」
「びっくりしました。本当にお人好しなんですね」
それは余計な一言だったのかもしれない。サイードは、ふいと顔を背け、そのまま王女を連れて行ってしまった。
「……でもちょっと、いろいろ抱えすぎじゃないですかね」
その背中を見て、思わず呟く。接近したとき、サイードからかすかに漂う複数の匂いを少年は嗅ぎ分けていた。それは、最近サイードが接触した人々の匂いなのだろう。もうその数だけで大変だな、と思わずにはいられないのだが、そのなかのひとつに、サイードの苦悩を見たような気がした。
間違いなく、それは、あの「領主さまのご子息」の匂いだった。
●
さて、サイードに言われたとおりおとなしく座り込んでいた少年は、すぐに物音を捉えた。頭上だ。話し声もする。
「あのー」
サイードたちの足音が完全に聞こえなくなってから、声をかけた。実をいうと、気配はずっと感じていた。たぶん、アウロラやサイードとの会話も聞かれている。
「すみません、聞いておられたならおわかりかと思うんですが、怪我をしているんです。助けてくださるおつもりなら、早いとこ助けていただけませんか」
そう話しかけると、頭上の人々は慌てたようである。なにやらドタバタと騒いでいたが、ややあって「ちょっと待って」と返事があった。直後、目を刺したのは眩い光。朝陽だ。どうやら、外に通ずる穴がちょうど真上に開いていたらしい。
その明るさに慣れたころ、少年の鼻先に太い綱が投げ込まれ、それを伝って女が降りてきた。
豊かに波打つ黒髪、鮮やかな瑠璃色の瞳。女はしなやかな指を口もとに当てて、じっと少年を見つめている。
「山瑠璃姐さん、どーお?」
また、頭上から声がした。山瑠璃と呼ばれた女は一度目を瞑って深呼吸すると、恍惚とした笑みを浮かべて言った。
「あなた、気に入ったわ! ようこそ、春の一座へ!」
「……はい?」
少年の、新たな居場所が見つかった瞬間であった。
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