アウロラは知っていた。自身の孤独を。そして世界の理不尽を。
それでも、アウロラは愛していた。そのすべてを、愛していた。
その最たるものを、彼女は見下ろした。苦しげにもがいていたその体は、いまはもう動きを止めている。静かに眠る顔に、見惚れた。この美しい、七つ年上の従兄の秘密を知ったのは、五年まえ。まだ、アウロラが生ぬるい幸福に浸っていたころのことだ。ただの、偶然だった。だがその偶然がなければ、きっとこんなことにはならなかった。
「……好きよ、おにいさま」
もう届かないその言葉を、改めて贈った。これは、本心だ。嘘偽りない、素直な言葉である。
だからこそ、アウロラはエヴェルイートが憎かった。
憎くも愛おしい顔に手を伸ばし、その前髪を撫でてなめらかな額を露出させると、アウロラはそこに口づけを落とした。本当は唇にしたかったが、生憎アウロラ自身が塗った毒で濡れている。袖の端で拭き取っても、触れる気にはならなかった。
次いで、エヴェルイートの両耳を飾る紅玉の耳飾りを見た。舌打ちなどという品のない行為をアウロラはしないが、気持ちとしてはそれに近いものがある。迷わず、両方とも外した。
エヴェルイートは宝飾品を好まない。それをアウロラは知っているし、それが相応しいとも思っていた。この耳飾りからは、エヴェルイートの匂いがしない。おそらく、だれかに持たされたものだ。それがだれなのか、見当はついている。
余計なことを、してくれたものだ。
耳飾りを自分の両耳に装着して、アウロラは立ち上がった。竜と目が合う。上体を起こしていた竜は、ゆっくりと前脚を折り、また眠るような姿勢に戻った。それを見てから、歩き出す。もうここには用はない。
忘れ去られた竜舎は静かだった。この場所は好きだ。アウロラはまだ十年にしかならない人生の、ほとんどの時間をここで過ごしてきた。そうさせたのは父王だ。
アウロラたち兄妹は、竜との意思疎通を図るための道具として育てられた。
竜とイージアスがこの国にやってきた当時のことについて、まだ生まれていなかったアウロラは詳しくない。ただ、十二年まえ、イージアスを手懐けることに失敗した父王や有識者たちが、竜だけを王宮に残して直接調教しようとしたということは聞いている。だが、その大人たちに竜は馴れなかった。だから、子どもたちに目をつけたのだ。イージアスが竜とともに育ち、その過程で自然と竜を操る技を身につけたのだとしたら、幼い子どもであればそれを再現できるのではないか、と。
最初に実験対象となったのは、長兄のシリウスだった。当時、十歳。彼はよく頑張ったらしいが、うまくいかなかった。しばらくして、当時七歳の次兄ダリウスが竜舎に連れてこられた。彼はひたすら竜を恐れ、それゆえに竜の機嫌を損ねたのか、大きな怪我を負った。それ以来竜舎に近づこうともしない。末兄のアレクシスだけは、そもそもそんなことが行われていたという事実すら知らない。当時四歳だった彼は、生母である第三妃の過剰な保護の壁に閉じ込められていた。
いちばんイージアスに近い年齢であるアレクシスが使えないことに、大人たちがやきもきしながら二年のときを過ごしたころ、アウロラが生まれた。アウロラは、生まれてすぐに竜の檻に投げ込まれた。
結果として、それは成功だった。敵意のない赤子のアウロラを竜が傷つけることはなく、アウロラのほうも竜の存在を自然に受け入れた。それはそうである。物心ついたころには、竜の檻のなかで一日の大半を過ごすことが当たり前になっていたのだから。
アウロラには、竜の気持ちがある程度読み取れる。それも当然といえば当然で、これだけずっと一緒にいれば、動作や表情、鳴き声などにパターンがあることくらいわかる。犬や猫を飼えば、それを互いに覚えてゆくのと同じである。
だが、アウロラは竜の言葉を理解できなかった。ある程度パターンを把握していたとしても、それですべてがわかるわけではない。それは竜にとっても同じなのだろう。こちらの言葉が正確に伝わることは、なかった。やはり、竜を操るには「歌」が必要なのだ。そしてそれは、見よう見まねでどうにかできるものではなかった。
アウロラはこう推測していた。あの「歌」は、竜だけの言語ではない。古のパルカイ民族と竜との間で長い年月をかけて構築された、共通言語なのだ。であるならば、こうして竜だけを飼育し、研究しようとしても意味がない。
だから、アウロラにはイージアスが必要だった。彼が王宮に戻ってくるよう仕向けたのは、アウロラだ。
とはいえ、あのカルタレスでの一件に長兄シリウスとヴェクセン皇帝マティアスの陰謀が絡んでいることも嘘ではない。ただ、あちらが組んで目論んだことを、こちらも組んで利用した、それだけのことだ。
アウロラはひとつ、息をついた。今日の風は、すこし冷たい。さらさらと流される髪を手で整えながら、歩く。
竜舎の入り口に、男が立っていた。もう老年といえるその男は、しかし堂々たる体躯をまっすぐに伸ばし、こちらを見ていた。剣を帯び、甲冑までは身につけていないものの機動性を重視した服装は、武人然としている。
「サイード」
アウロラがその名を呼ぶと、老剣士は略式の礼をした。
「アウロラ殿下」
「済んだわ。あとはお願いね」
「……は」
答えるサイードの顔は、青い。
「どうしたの? ひさしぶりに大事な孫息子に会うというのに、うれしくないの? ああ……それとも、孫娘と言ったほうがいいのかしら。でも、もう、どちらでもいいわね」
ブロウト家前当主、エヴェルイートの祖父、サイード。アウロラたち兄妹にとっては教育係筆頭であり、剣術指南役でもある。
アウロラは、エヴェルイートの秘密を知っていた。そして、サイードの抱えた秘密も、知っていた。
「ね、サイード?」
だから、彼はいつもアウロラの味方だ。
「……殿下の御心のままに」
サイードは深く頭を垂れた。アウロラは彼にほほ笑みかけて、再び歩き出す。
「わたくしのことは気にしなくていいから、ゆっくりしていらっしゃい」
言いながらその場を離れた。サイードはしばらく立ち尽くしていたようだったが、やがてやや乱れた足音が聞こえた。
ごめんなさいね、と、アウロラは胸のうちで呟く。これでまたひとつ、彼の抱える秘密が増えるのだ。それを共有できる、喜び。
アウロラは、本当にみなが好きだった。
それゆえに、王国の現状に耐えられなかった。
「待っていてね。必ずわたしが、みんなを解放してあげるから」
もうすこしで、そのときが来る。弾むような足取りで、少女は竜舎をあとにした。
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