節題とは関係ないが、ベルナール・アングラードといえばドラグニア小大陸きっての色事師であり、同時にたいへんな愛妻家だったことでも知られている。
とくに最初の妻(正式な婚姻関係にはなかったが同等の扱いを受けていた、謂わば「紫の上」)である「瑠璃姫」との絆は固く、ふたりが結ばれた日に夫から妻へ贈られたとされるティアドロップ型のルビーの耳飾りは、現在では夫婦円満や縁結びのお守りとして売り出されているくらいである。
瑠璃姫との死別後、ヴェクセン皇帝となってからもベルナールは決して女遊びをやめたわけではなかったが、后とふたりの側室を大切にし、また彼女たちからも深い愛情を受けたといわれている。が、それは「最愛のひと」瑠璃姫と出会ってからの話であって、
「なんなのだ、あの男は!」
とエヴェルイートが憤る、六二二年当時のベルナールには当て嵌まらない。
「いい男だと思いますけれど」
「ウリシェ、おまえ男を見る目がないな」
「おや、あなたに男の善し悪しがおわかりになりますか。抱かれたこともないのに?」
「なんで! わたしがあんなど阿呆なんぞに抱かれねばならんのだ!」
一行をカルタレス城まで案内し、領主である父の紹介も済ませ、へらへらとうるさい金髪男を客間にぶち込んだところで、エヴェルイートは限界を感じて自室へと逃げ込んだ。様子を見にきたウリシェに愚痴をこぼした結果が、これである。いやなことを思い出してしまった。
あの金髪男、ベルナールは道中も妓館へ案内しろだの美人の使用人はいるかだの、とにかく女、女とやかましく、それを適当にあしらっていたら挙げ句の果てに
「ふむ、エヴェルイートどのならば抱けそうだな」
などというとんでもない侮辱を投げつけてきたのだ。しかもご丁寧に、品定めするような目としぐさのおまけつきで。
「なにしに来たんだ、あいつは!」
「それには同感いたします」
ウリシェが冷静に頷く。それにすこしだけ救われたエヴェルイートは、椅子に深く腰掛けて息をついた。胸をきつく締めつける布が苦しい。
「すこしゆるめたほうがよろしいのでは?」
すぐに察したウリシェが、そっけない素振りで気遣ってくれる。胸の膨らみの隠し方を教えてくれたのも彼女だった。ふたりきりのいまなら、べつに彼女の言うとおりにしてもよいのだが、さすがにこの年齢になると羞恥心が勝る。といっても、診察や手当ての際には容赦なく引っ剥がされるのではあるが。
「いや、どうせまたすぐに戻らねばならぬ。連中のまえでほどけたりしたら厄介だ」
「さようでございますか」
「気遣い、ありがとう」
「いいえ。では、呼吸困難で倒れたりなさいませんように」
「そんな馬鹿なことがあるか」
と笑ったとき、馬鹿みたいによく通る声がエヴェルイートを呼んだ。
「エヴェルイートどの! ここはどこだ、おおい、エヴェルイートどの!」
「…………」
いやな予感を必死に誤魔化しつつ、窓を開ける。
このころのウルズ王国にはまだ板ガラスというものがなく(というよりこの時代の多くの国がそうであったと思うのだが、古代ローマには我々の住宅と同じような板ガラスを使った窓があったというのだから驚きである)、窓といったら分厚い木の鎧戸を開閉するもので、つまり閉めきった状態だと外の様子を知ることはできない。一応、瓶底のような小さな円盤型のガラスを鉛の枠で何枚も繋ぎ合わせた、いわゆるロンデル窓は存在していたのだが、それは非常に希少かつ高価であり、宗教施設や一部の貴人の住まいくらいにしか使われなかった。カルタレス城も貴人の住まいではあるものの、それより要塞としての役割が大きかったため、ロンデル窓は採用されなかったようである。
そういうわけで、窓を開けてはじめて見えた光景に、エヴェルイートは絶望した。
「おお、エヴェルイートどの! 私だ、迷った!」
「……見ればわかります」
件の男が、なぜか泥だらけの顔をして二階にいるこちらを見上げていた。
「なぜそのようなところにおわすのですか、殿下」
「殿下はよせと言った。私とあなたの仲ではないか」
「……失礼いたしました。して、ベルナール卿、なにがあってそのようなお姿におなりあそばした?」
いちいち面倒な男である。だいたい、どんな仲だというのだ。
「いやなに、ただ無邪気な好奇心に負けただけのこと。汚れているのは、気にするな」
それは無理な話である。大事な客人にみすぼらしい格好をさせたままでは、咎められるのはこちらなのだ。早急になんとかする必要がある。本当に面倒臭い。
「とにかく、そのままお動きになりませんよう。いまそちらへ参ります」
そう言って窓から離れようとすると、
「いや、――」
ベルナールがにやりと口角を上げた。それから石積みの壁を撫で、そこに這っている太い蔦をぐいと引っ張って足を上げたかと思ったら、
「――このほうが早い」
次の瞬間には、そのにやけた顔が目のまえにあった。鼻と鼻が触れそうなほどの距離と突飛な行動に驚き、エヴェルイートはついそれを撥ねのける。
「おお!? エヴェルイートどの!?」
すると当然、窓枠という不安定な場所に体重を預けていたベルナールはバランスを崩し、大きく傾いだ。はっと我に返り、必死にその体を引き寄せる。不本意ながら抱きつくようなかたちになり、力任せに引っ張ったがためにもつれ合いながら床に転がる羽目になった。衝撃に息が詰まる。動けずにいると、ベルナールのほうはすぐに頭を起こし、こちらを見下ろした。
「すまぬ! 怪我はないか?」
「……背中を打ちました。あと重いのでどいていただけますか」
驚くべき速さで壁を駆け上がってきた男の体はさすがにがっしりしていて、のしかかられたままだとつらい。騒ぎに気づいたのだろう、部屋の外で控えていたはずのイージアスもいつの間にかそばにいて、その長躯を退けるのに手を貸してくれた。すっと立ち上がったところを見るに、ベルナールに怪我はないようだ。
「いや、申し訳ない。驚かせてしまったな」
「ええ、驚きました。あまりの非常識さに」
差し出されたベルナールの手を払いのけ、行儀悪く床に座ったままで、不機嫌を隠しもせずにエヴェルイートは答えた。それを咎めることもなく、ベルナールは笑う。
「その様子ならば問題はなさそうだが……やはり心配だ、私の連れてきた医術師を呼ぼう。気分は悪くないか?」
「気分は最悪ですが、けっこうです。ウリシェ」
「はい」
ほとんど壁と同化していたウリシェを呼ぶと、す、と近づいてきて手早く怪我の有無を調べてゆく。触れられても、へんな痛みはない。エヴェルイートが問題ないと判断したのとほぼ同時に、
「ご安心なさいませ、ベルナールさま」
ウリシェが言った。
「打撲痕は残りましょうが、とくに異常は見当たりません。ですが、以後お気をつけくださいませ、我らが若君は少々ひ弱でいらっしゃいますので」
「……ウリシェ、無礼であろう」
自分の無礼は棚に上げたエヴェルイートである。まったく、ウリシェの胆力には感服せざるを得ない。こちらにまで被害が及ぶような言い方は、勘弁してほしいところではあるが。
「いや、悪いのは私だからな。ウリシェとやら、そなたにも詫びよう。大事な若君を傷つけるところだった」
「お言葉、受け取りました。寛大なお心に感謝いたします」
「それにしても……そなた、年増だがなかなか好い女だな。知性が滲み出るようだ」
「よく言われます」
「うむ、胸も豊かだ。よい」
「ベルナールさまはお目が高くていらっしゃいますね」
半ば呆れながらそのやり取りを聞いていたとき、エヴェルイートはただならぬ気配に気づいた。いつもどおりの態度を崩さないウリシェの反対側、エヴェルイートを庇うように立つイージアスが、顔色を失っている。
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