こうして秘密を抱えることになった幼いエヴェルイートの世界は、しかしおだやかな光に包まれていた。
「エヴェルイートさま、どうぞそのまま、お動きにならないでくださいまし! いまエリスが参ります!」
「へいきだよ、エリス。もうすこし……」
片手に雛鳥を、片手に枝を掴み、両足で木の幹を挟んで腕を伸ばす。届いた、と思ったところで手がすべった。侍女の悲鳴が聞こえたと思ったら、次の瞬間にエヴェルイートがいたのは逞しい腕のなかだった。
「ちちうえ!」
大好きな父の、いつもすこし怒ったような顔が目のまえにある。巣に戻そうとしていた雛鳥はまだ自分の手のなかにいて、小さく鳴いていた。
「まあ、まあご無事でようございました! エリスは生きた心地がいたしませんでしたよ」
白髪まじりのちょっと太った侍女が、息を弾ませながら駆け寄ってくる。普段はおっとりとにこやかな顔を青くして、汗をかいていた。大げさだと笑おうとしたが、
「エリス、これはどうしたことだ。ブロウト家の跡取りを危険に晒すとは、覚悟はできておろうな」
厳しい声の父がそのまま剣を抜こうとするので、エヴェルイートは慌てた。
「ちちうえ、やめて! エリスはわるくないです!」
言う間に涙があふれた。剣の柄を握る父の手にすがり、必死に訴える。やがて泣き声しか出なくなったころ、ようやく父は剣から手を放し、視線を合わせるようにエヴェルイートを抱き上げたのだった。
「そうだな、エリスは悪くない。だが、おまえの軽率な行動で罰を受けるのはこの者たちなのだよ。よく覚えておきなさい」
エヴェルイートはぶんぶんと首を縦に振った。父の目もとが、ほんのちょっと、やわらいだ。
「わかったなら、エリスに謝りなさい」
そう言われてゆっくりと父の腕からおりたエヴェルイートは、素直に侍女エリスのほうに向きなおった。うしろから肩をぽん、と叩くのは父の手だ。これは、勇気の出るおまじないなのだ。エヴェルイートがしっかりと顔を上げ、まだひくつく喉を鳴らして
「エリス、ごめんなさい!」
と言うと、侍女は青かった顔を赤くして、いつものように笑ってくれた。
「ほんに聡明でおやさしいお子でいらせられますこと。エリスはエヴェルイートさまにお仕えできてしあわせでございます」
「ほんとう? これからもいっしょにいてくれる?」
「エリスが嘘を申したことがございますか? いやだと言われても必ずおそばにおりますよ」
エリスが濡れた頬をやさしく拭ってくれたので、エヴェルイートも安心して笑った。
「それにしても、姫さまのご幼少のころによく似ておいでで……」
とエリスが言いかけたところで、エヴェルイートは母の姿を見つけた。母は侍女をひとりだけ連れ、慌ててやってきたようだった。
「まあ、髪がくしゃくしゃね、エヴェルイート、いったいなにがあったのです?」
ふわりと髪を撫でる母に、手のなかの雛鳥を掲げてみせる。
「つばめです。おうちにかえれなくて、ないてたから……」
母は、ああ、と頷いてから父を見、ほっと息をついた。
「泣き声が聞こえたので心配していたのです。無茶をしてはなりませんよ」
「はい、ははうえ」
「雛は見つけた場所へ戻しておやりなさい。ご覧、もう羽が生え揃っているでしょう、これは巣から落ちたのではなく、巣立ちの準備をしているのです」
「そうなの? ははうえは、えっと……ものしり、ですね!」
するとエリスが耐えきれないというように、
「姫さまもむかし同じことをなさって、このエリスに叱られておいででした」
言って笑った。エリスは母のことを、ときおり「姫さま」と呼ぶ。エヴェルイートの生まれるずっとまえから母に仕えてきたためだと聞いたことはあったが、このころのエヴェルイートはまだ、母がそう呼ばれる理由やその血を継ぐ自分の立場を理解してはいなかった。
「なるほど、この困った性分はあなた譲りでしたか」
父が肩をすくめて、母は恥ずかしがるような、でも怒ったような顔をした。すかさず、母と一緒にやってきたほうの若い侍女が
「旦那さまも同じことをしておられましたが」
と、にこりともせずに言う。父はひとつ咳払いをして、それきり黙ってしまった。ウリシェというこの侍女は父の乳兄弟であるらしく、なんでも知っている彼女に父も頭が上がらないときがあるという。
「エリスとウリシェがいちばんえらいね。わたしもそんなふうに、えらくなれるかなぁ?」
エヴェルイートが言うと、大人たちはみな顔を見合わせて笑った。
この父ヴェンデル、母アリアンロッド、侍女エリスとウリシェの四人との関わりによって、エヴェルイートの基本的な性質は形成されたといってよいだろう。そしてこのよき教育者である大人たちこそが、エヴェルイートの秘密を知る数少ない協力者でもあったのである。
彼らの惜しみない愛情は、エヴェルイートを縛りつけることなく、のびのびと育てた。おかげで良家の子女のわりにはやんちゃが過ぎることもあったようだが、その明るさは人々に愛され、長じてのちも周囲を照らし続けたという。決して長いとはいえなかったその生涯は、もちろん幸福なだけではなかった。それでもさいごの瞬間にほほ笑むことができたのは、この幼少時代があったからこそといえよう。
母アリアンロッドが、繰り返しエヴェルイートに言い聞かせたことがある。
「エヴェルイート、自分を特別だと思わないで。あなたは、あなた以外の何者でもない、ただの人間です。だからあなたは、いつだってあなたとして生きればいいのよ。笑って、泣いて、悩んで、苦しんで、迷って、立ち止まって、憎んで、愛して、騙して、諦めて……そうやって、ただ、生きて」
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