思うに、死とはひとつのはじまりである。
私はまだ死んだことがないから死後の世界というものを知らないが、まあずいぶんといろいろな見解があるようだし、きっと退屈なものではないのだろう。たとえば神に祈ることのない私が、この神の教えの守護者たる帝国で海の向こうの神々に捧げる歌を聞きながら人生を終えたらどうなるのか、などという素朴な疑問はさておき、人間は遥か昔から「死」と「その先」について様々に考えてきた。
だが死者の「はじまる場所」は、死後の世界ではなく生者の世界であるように思う。鼓動が止まったそのときに、人は死者として生まれるのである。
生者の見る死者は、おそらく生前のその人とはまったく違うものなのだろう。いや、生きている間ですら、本人を除いて正しくその人を知る者などいないのだ。ただ生きていれば、自分がこういうものだと知らせるための手段が使えるというだけである。
それすら失った死者は、生者のなかで「こういう人」として改めて生まれ、「こういう人だった」と回顧され、「こういう人だったかもしれない」と考察され、やがて「そういう人」として忘れられ――あるいは、いつまでも残る。
それが歴史に名を刻むような有名人であればなおのこと、多くの生者のなかで「その人」として生きはじめるのだ。
そういった幻影が、いくつこの世界には生きているのだろう。その死の瞬間から、いくつの空想の人生を歩んできたのだろう。
しかしながらそれらは、たしかにその人であるようにも、思われる。
その人がその人として生まれ、生きなければ、その死もまた生まれなかったに違いないのだから。
(アスライル・バルバートル『追憶』)
●
わたしのことを思ってください
わたしのことを感じてください
たとえあなたに見えなくとも
たとえわたしが見えなくとも
わたしのことを呼んでください
わたしのことを歌ってください
きっとあなたがそうするとき
わたしはそこに生きています
(春の一座伝承歌)
●
『神よ! なぜあの人を連れていってしまわれたのですか。あなたは言った、肉体は穢れたものだと。ではあの人と私の過ごした日々は、この肉体で愛し合った日々は、なんだったとおっしゃるのですか。あの人は行ってしまった。あなたの慈悲の炎に焼かれて。私のこの、肉体の感触もぬくもりも忘れて。ひとつに戻るため出会ったというのに。私たちは、ひとつに戻るため出会ったというのに。』
(作者不詳、カルタレス、古い家の壁に刻まれた落書き)
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