結論からいうと、ソランと名乗った少年からはなにも聞き出すことができず、その相手をしている間ただいたずらに体力を消耗しただけだった。ミミの診察によれば毒はほとんど抜けているとのことではあったが、なにせ泣いて暴れるので手当てもろくにできない。わざわざ特別に用意した部屋から
「リューを探しにいく!」
と飛び出そうとするのを何度止めたことか。宥めて説得してようやく寝かしつけたときにはもう、瑠璃姫の疲労も限界に近かった。
「おつかれ」
一緒に格闘していたミミが笑いながら肩を叩く。
「ああ……ミミも、ありがとう」
「なぁに、慣れたもんよ。ま、でもキツイのは事実だわね。これをずっとやってんだから、親ってのはえらいよ、ホント」
親。もちろん他意はないのだろうが、いまはどうしても引っかかる言葉だ。
「……そうだな」
眠るソランの汗を拭いてやる。そういえば、この子の親はどうしているのだろう。もしかしたら、こうして保護することで引き離してしまったのかもしれない。
「我が子を育てるというのは……どういう気持ちなんだろう」
たとえばこの子の親は、たとえばティナは、いま、どう思っているのだろう。
「そりゃぁアンタ、人それぞれでしょうよ。アタシは産んであげらんなかったからよくわかんないんだけどさ」
さらりとミミは言ったが、それを聞き流すことはできなかった。目が合う。ミミの眼差しはおだやかで、静かだった。
「むかしね。一回だけ授かったんだけど、まぁいろいろあってさ。アタシが……殺したってことになるんだろうねぇ」
遠くで鳥が鳴いていた。なにも言えなかった。
ミミはほほ笑むと、瑠璃姫をやわらかく抱きしめた。
「好きなひとの子を産めないってのもさ、けっこうつらいよね」
豊満な胸に包まれて、息が詰まった。
ああ、そうか。そうだったのか。
「……うん」
こんなにも、求めてしまっていたのか。
その悲しさに、おそろしさに、涙が出た。ミミは黙ってそのまま抱きしめてくれていた。そのうちに、眠ってしまったらしい。
夢を見た。ひどくしあわせな夢だったように、思う。
金色の風が吹いて、そっと耳もとで名前を呼んだ。応えようと、目を開けた。
「……ベルナール?」
夢のとおりの、光景がそこにあった。
鮮やかな新緑色の瞳が、こちらを見ている。黒くない。ちゃんと、いつもの、彼の目だ。
「……夢か?」
「夢ではないな」
と苦笑するのに合わせて、金髪が揺れる。触れた。いる。ここにいる。
そう認識した瞬間に、抱きついていた。驚いたような息づかいが聞こえた。逃がさぬように、いっそう強く抱きついた。
「……遅い」
「ああ……そうだな。すまなかった」
ベルナールの手が、ゆっくりと背中にまわされる。この手だ。この手が、いつか、ほかのだれかの子を抱くのだ。
気づいてしまったら、もう、耐えられなかった。わかっていたことだった。いつまでもいまのままではいられない。ずっと隣にいられるはずがないと、わかってはいたけれど。
もう、やめよう。本当に、離れられなくなるまえに。このひとにとって最善の道を、考えられなくなるまえに。
これ以上、いやな自分になるまえに。
腕の力を緩めると、ベルナールも同じように瑠璃姫を解放した。自然、見つめあう。
いつもどおりの、自信に満ちた顔がそこにある。その唇に、口づけた。
次第に絡まる吐息を、夢中で追いかけた。
これが最後だと言い聞かせながら、追いかけた。
●
ベルナールが帰ってきたのはどうやら深夜のことだったらしく、瑠璃姫が再び目を覚ますと翌日の朝になっていた。そこでようやくソランの横で寝入ってしまっていたことを思い出し頭を抱えたが、少年はピクリとも動く気配がない。これならばきっとあのときも熟睡していただろうと都合よく解釈して、瑠璃姫は起き上がった。ベルナールはすでに仕事に戻ったようだ。
いっそすべて夢だったならばよかったのかもしれない。だが、もしそうならこんなに落ち着いてはいられなかったかもしれない。
現実だから、決断できた。だれのためでもない。これは自分のためだ。自分で選んだことだ。
大丈夫。それさえ見失わなければ、なにがあっても立っていられる。
窓を開けると初夏の風が吹き込んできた。それがくすぐったかったのか、ソランが寝返りを打つ。はずみでめくれた掛け布を直してやる途中、瑠璃姫はあるものを見つけた。
「鍵?」
どうやらソランが握りしめていたらしい。開きかけた手のなかにある鈍い銀色の輝きは、昨日は見なかったものだ。どこかに隠し持っていたのだろうか。
大切なものなら、あまり人目に触れないほうがよいだろう。その鍵を持つ手ごと掛け布で覆ってから、部屋を出た。いまはそっとしておいてやりたかったし、子どもを見るのはすこし、つらかった。
王宮内は相変わらず忙しないがどこか活気が戻ったようにも見える。一度自室に戻って身だしなみを整えた。瑠璃玉で飾られた櫛を髪に通す。あっけないくらいにさらりと抜けて、なんだか拍子抜けした。
やるべきことは山ほどあると思っていた。だが実際には、ほとんどベルナールが片付けたあとだった。
次々と指示を出すベルナールはわずかに足を引きずっていて、しかしそれを瑠璃姫には見せまいとしているようだった。だからなにも言わなかった。
言えなかった。現場でなにが起きていたのか、その身になにがあったのか。あの花のことも、亡国のことも、聞けなかった。
なぜだか急に怖くなった。
聞いたとして、話したとして、なにか意味があるのだろうか。
そうして一日を所在なく過ごし、夜。
「話がしたい」
と、庭園に誘い出した。
怪我のことを考えたら彼の部屋のほうがよかったのだろう。でも、そうする勇気はなかった。
皮肉なほど月が冴えていた。だから表情がよく見えた。
「かたちだけでもいい。ティナさまを妻として迎えてくれないか」
そう言ったときの、彼の表情がよく見えた。
「……なにを言っている?」
「ティナさまはご懐妊されている。これが明るみに出れば混乱は必至だろう。だからわたしなりに考えた」
「考えた? それが最善の策だとでも言うつもりか?」
「ああ」
冷たい風が吹いていた。もうあとには引けなかった。
「もちろんご本人は納得されないだろう。だがこの際それは二の次でいいと思う」
「……私の思いも二の次か」
「あなたにだって利点はあるだろう?」
思ったより、言葉はすらすらと出てきた。きっと顔も、うまく取り繕えていると思う。
ベルナールはしばらくなにも言わずに、じっとこちらを見ていた。そのままどれだけのときが経ったのかわからない。
「……本気で言っているのか」
地を這うような声が聞こえた。
「……ああ」
「あなたにとって私はなんだ!? なにを思っていままで傍にいた!」
そんなの。
そんなの、言えるわけがない。
「……あなたは、いずれ再興する我が国の礎だ。それ以外のなんでもない」
月は、この笑みをちゃんと照らしてくれているだろうか。彼に見せつけてくれているだろうか。
「だからあなたにとっても、我が国にとっても、よりよい道を選ぶべきだ。もちろん、これからもわたしにできることがあれば協力しよう。だがこれ以上、わたしがこの場所にいるのは適切ではない」
大丈夫。だいじょうぶだ。
「わかるだろう? ベルナール・アングラード」
本心は全部、きっと濃い影に紛れてしまうから。
だいじょうぶ。
「わかった。……もういい」
その言葉は、まるで剣の切っ先のようだった。
「あなたの言うとおりにしよう」
すれ違いざま、それは瑠璃姫の心をあっさりと切り裂いて、もう、戻ってこなかった。
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