天幕を出るとすでに陽が傾きはじめていた。相変わらず強い光に目を眇める。隣で、アイザックが大きく伸びをした。
「あなた、起きてていいの」
純粋な疑問をぶつければ、
「まったく問題ないです。ずっと寝てるほうがつらいですし」
と歩き出す。
「……そう」
数歩の距離があいたところで、リュシエラもそのあとに続いた。
集落は常にざわついていて、でもどこか静かだ。小さな子どもが走ってゆく。それを母親が追いかける。涼気と濃い緑の香りを孕んだ風が抜け、洗濯物をはためかせる。
目に見えるひとつひとつに生活がある。
深く息を吸い込んだ。わずかに砂の味がした。
しばらく歩くと小さな丘に出た。天幕のないその頂上に、ふたつの人影がある。そのうちのひとつがこちらに気づき、大きく手を振った。
「アイザーック!」
「げ」
踏み潰されたような声を漏らすアイザックとは対照的に満面の笑みで駆けてきたのは、栗色のおさげを揺らす少女だ。
少女はリュシエラたちのまえで足を止めると、一転、眉を吊り上げた。
「なんであんたが一緒にいんのよ」
その物言いや声に覚えがある。たしかマリッカと呼ばれていたか、リュシエラの天幕の入口で騒いでいた、あの影の主に違いない。
「あなたに言う必要があって?」
思わず棘を生やした言葉で返せば、マリッカはそばかすの浮く頬を紅潮させた。
「当たり前でしょ! だいたいあんたアイザックのなんなのよ」
「あなたこそなんなのよ」
「あたしは未来のお嫁さん!」
とアイザックの腕を取る。
リュシエラは隣を見上げた。まるで一切を削ぎ落としたかのような顔がある。それが無言のまま、ゆるゆると左右に振れた。
「……なんだかすれ違いがあるようだけれど」
「あんたにはわかんない世界があんの!」
マリッカはなおもアイザックに迫り、ぴったりと体を寄せた。
「このひとってば恥ずかしがり屋でねぇ……もう、ほんとは嬉しいくせにぃ!」
「げ、って言ってたわよ、げ、って」
などと言いあううちに、丘の上からもうひとりが降りてきた。豊かに波打つ黒髪が
西陽を弾く。山瑠璃だ。
「お嬢さま方は元気ねぇ」
くすくすと笑う彼女の手には、数種の植物が握られていた。
「マリッカちゃん、あなた大事なものを忘れてるわよ」
とそれを差し出す。受け取ったマリッカは「あたしったら!」と恥じらう素振りをみせたあと、そのままアイザックの手に押しつけた。
「はい、これ」
「なんですか」
明らかに面倒くさそうな声に、朗らかな声が答える。
「まえに薬になるって言ってたでしょ。だからいっぱい集めたの。これ食べてはやく元気になってよ、足りないならいくらでも採ってくるからさ」
「……マリッカ」
アイザックがマリッカの手を取った。そして。
「これは下剤のもと、これは自白剤、これはただの雑草で、これとこれは猛毒です」
「あれっ?」
丁寧に一本ずつ戻してゆく。
「きみはおれをどうしたいんですか」
「言っていいの!?」
「やめてください」
なんだかんだで楽しそうだ。
「それよりお腹すいてない? お昼ちょっと残しておいたんだ。一緒に食べよ」
今度はマリッカがアイザックの手を取る。アイザックは肩越しにこちらを振り返り、口を開いた。しかしそれが言葉を形作るまえに、マリッカに強く引かれて彼女のほうへ向きなおる。それから大きくため息をつくと、手を引かれるまま歩き出した。
「わたくしたちも行きましょうか」
山瑠璃が隣で言う。リュシエラは無言で頷き、彼らのあとを追った。
自分の天幕まで戻って、山瑠璃が用意してくれた食事を口に入れて、けれどあまり喉を通らなくて大半を残した状態で寝転がる。
目を閉じた。静かだった。まとまらない考えだけがぐるぐると巡ってさざ波を立てる。
ふと、ここから消えてしまいたくなった。
『わたしを覚えていて』
耳の奥で声が響く。
「……あなたを忘れないわ」
虚空に呟く。
あのときのアウロラの顔が、もう、思い出せない。
そのままどれだけの時間を過ごしたのだろう。ふと目を開けると、また暗闇だった。そのなかにただひとつ、明滅する光がある。黄緑色の、ごく小さな点のような光だ。
捕まえようとするとふわりと逃げた。軌跡を描きながら空中を漂って、天幕の隙間から外へと抜け出す。無意識に足が動いた。
入口の垂れ幕を上げる。土と草を踏む。真っ暗だ。動くものも、声もない。まるでこの世にひとりきりになったような、静寂。
駆け出した。光はなおもリュシエラの行く先にあった。それだけを追って駆けた。
駆けて、駆けて、ようやく足を止めたとき、リュシエラは目のまえの光景に息を呑んだ。
鏡のような湖と、その水面に映る晴れ渡った夜空。そして視界いっぱいに広がる、黄緑色の光の粒。
儚く明滅しながら舞う姿は、どこか夢のようで。
「アウロラ……?」
なぜだかそこに、彼女がいるような気がした。
「見事な蛍ですね」
そのとき突然、背後から声がした。振り返れば、いつの間にかアイザックが立っている。
「蛍?」
ぼんやりと聞き返すと、リュシエラの横を抜けて湖のほうへと歩き出した。
「夏を告げる虫ですよ。綺麗でしょう」
「どうして光るの?」
蛍の淡い光を纏う背中になおも問いかける。アイザックは静かに湖のなかほどまで進み、半身を夜空色の水に浸した。
「蛍は死者の魂ともいいます。見つけてほしくて、光るのかもしれませんね」
波紋が音もなく広がって、水面の星々を散らす。
しばらく、なにも言わずにそれを見つめた。
何匹もの蛍が通り過ぎていった。どれがどれかなんてわからなかった。最初にリュシエラを誘った一匹も、どこかにはいるのだろうが見つけられるはずもない。
それでも、光るのか。
ただ、ここにいることを伝えるために。
「わたしね」
喉の奥から言葉がこぼれた。
「死ぬってどういうことか、よくわからなかったの」
ぽろぽろとこぼれて、落ちた。
「でもすこしだけわかったような気がするわ」
手を伸ばす。軽く開いた手のひらに、蛍が一瞬だけ触れて、去った。
すぐに紛れてわからなくなる。その光を、じっと見つめた。
それらがすべて消えてしまうまで、見つめ続けた。
●
匙を取る。椀を持ち上げ、中身を掻き込む。
昨日の夕飯の残りは、ほのかに酸っぱい匂いがした。
まあこの程度なら問題はなかろうと一気に平らげる。それよりも無駄にしてしまうほうが問題だ。食事の大切さとありがたさは充分に理解している。
しっかりと全部飲み下してから口もとを拭った。満腹にはほど遠いが致し方ない。
「ごちそうさまでした」
と丁寧に椀を置いてから、勢いよく立ち上がった。
天幕の入口を跳ね上げる。まだ青い空気が朝靄にかすんでいる。涼しい風が頬を撫で、髪を揺らした。
顔を上げて、まっすぐに歩いた。
やがて見えてきたのは昨日の丘だ。すこし歩調を速めてふもとまで行く。見上げた先に人影があるのも昨日と同じで、だが今日はそこで足を止めずに頂上まで一息に駆け上がった。
「スハイル!」
そこに立つ背中に呼びかける。スハイルが驚いた様子で振り返った。
「よくここがわかったな」
「アイザックから聞いたの。朝はだいたいここにいるって」
言いながら隣に並んだ。それから体ごとスハイルを見る。応えて、相手も動いた。
「聞いてほしいことがあるの」
正面から向き合う。
「聞こう」
空が白みはじめていた。
遠くで鳥が鳴いた。木々が波のような音を立てた。
「あれからいろいろ考えたわ」
藍色の空には、雲ひとつない。
「でも答えなんてひとつも出なかった。だからわたし、このままじゃ終われない」
自身の鼓動が、強く胸を打った。
「なんでもいい。なにかしたい。なにかひとつでもできるようになりたい。それがアウロラの代わりだとしても、わたしじゃなくたってよくても。だってわたしは生きているから。わたしがここにいることを、わたしは知っているから」
強く、打った。
「わたしはもう、わたしを無駄にしたくない」
風が吹いて、靄を晴らした。
スハイルがゆっくりと目を伏せる。一度だけ瞬きをする。
再び目が合ったとき、その下端に夜明けの光が射した。
「リュシエラ嬢。あなたというひとを、おれは決して無駄にはさせない」
静かだがたしかな声だった。リュシエラは大きく頷き、しっかりとそれを受けとめた。
そのときである。
腹が、盛大に鳴った。
スハイルが目を丸くする。リュシエラは笑って、その手を取った。
「とりあえずご飯にしない? お腹すいちゃった」
言うが早いか歩き出す。
足の下で朝露がはじけた。
東の空の果てを、昇りかけの太陽がはじまりの色に染めていた。
(Ⅳ翠の章に続く)
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