「ねえ、待って」
手綱を握るアイザックの腕を引く。
「待ってってば!」
今度はもうすこし強く。それでも速度を落とすつもりはないらしい。見上げると、銀色の瞳はひたすら前方だけに向けられていた。
「ねえ!」
「うるさいな、黙ってないと舌噛みますよ」
ようやく得られた反応は期待していたものではなかったが、リュシエラはそれくらいでめげるような娘ではない。不安定な馬上で足を踏ん張り、よじ登るようにしてさらに詰め寄る。
「あの女の人たちは!? 置いていくつもり!?」
「そうですよ。当たり前でしょう」
すこしも視線を動かさずにアイザックは言った。
「なんてひと! あれでは本当に死んでしまうわ! いまならまだ間に合う、戻って手当てを」
「してどうするんですか。連れていってその後の面倒も見てやるんですか。あるいはそれぞれの家に帰してやる? どうやって? なにも持たない、自分の身すら守れないきみが?」
そこではじめてアイザックと目が合う。
「それは……」
リュシエラは押し黙った。反論できなかった。いまこのときも、リュシエラは実際なにもできずにいる。アイザックがいなければ馬に振り落とされて終わりだ。
「わかったらおとなしくしがみついててください」
リュシエラはそれでも口を開きかけたが、結局、言われたとおりにするしかなかった。座りなおして下を向き、靡く鬣を意味もなく眺める。
歯がゆかった。やるせなかった。血の滲むほど唇を噛んだ。
顔を上げられぬまま馬の背に揺られ、どれほど経ったころだろう。ふと、背中に重みを感じた。
気づけばそこは静かな湖畔である。馬は足を止めて水を飲み、満足げに鼻を鳴らす。波紋の広がりを目で追えば、いつの間にか傾いた陽が水面に黄金色の光を落としていた。
そのきらめきに思わず顔を上げる。が、さらにのしかかる重みによってそれは阻まれた。圧し潰されそうになるのをなんとか耐える。
「ちょっと……」
と振り返ろうとしたところでリュシエラは異変に気づいた。
アイザックの顔がすぐそこにある。リュシエラの肩にもたれているのだ。そのせいで息遣いまではっきりと感じられる。彼の吐く息は荒く熱を帯びており、汗ばむ眉間は苦しげに寄せられていた。
「アイザック!?」
「……そんな大声出さなくても聞こえてますよ」
そう答える声にも力がない。伏せられた睫毛が自嘲気味に揺れた。
「しくじりました」
「どういうこと?」
「毒です。最初に受けた矢に毒が仕込まれてました。っていうのはまあそのときから気づいてたんですけど、ちょっと、甘く見ていたというか……」
言う間に顎がずり落ち、全身が大きく傾ぐ。慌てて支えようとするも力が足りなかった。咄嗟に掴んだ腕に引きずられて、アイザックとともに馬から落ちる。
強かに半身を打ちつけて息が詰まった。その衝撃に驚いたのか、馬は前脚を高く上げて嘶くと、そのまま駆けて行ってしまった。痛む体を鼓舞して手を伸ばしても、それが届くはずもない。取り残されたという事実を、ますます思い知らされるだけだった。
さいわいにも、やわらかな草で覆われた湖岸がリュシエラを深く傷つけることはなかったようだ。なんとか上体を起こして四つん這いになり、仰向けに倒れているアイザックの頬に触れる。肩からこぼれた髪の束が、その青ざめた肌の上にはらはらと落ちた。
「アイザック」
もはや反応もない。
彼の口ぶりからすると、とっくに毒は全身にまわっているのだろう。あの大立ち回りのあと、急に調子を崩したように見えたのもきっとそのせいだ。
だがそれがわかったところでいまさらどうしようもない。というより、たとえこうなるまえに彼の状態を把握していたとしても、リュシエラにはなにもできないのだ。
そう、なにもできない。
無力だった。
どうしたらいいのかわからない。右を向いても左を見ても、それを教えてくれる人はだれもいない。
「アイザック」
呼ぶ声が無様に震える。応えるものはない。静かだ。いまにも泣き出しそうな自身の呼吸音だけがいやに響いて返ってくる。そんなものは聞きたくない。ぎゅっと口を引き結ぶ。
視線のすこし先で木々が派手に揺れた。小鳥の群れが一斉に飛び立ったのだ。そんなものにびくついて、肩が跳ねたのははじめてだった。
こわい。
ひとりになるのがこんなにもこわい。
「……だれか」
夕映えの空がゆらりと滲む。
「だれか来て」
あてのない懇願が泣き声に変わる。
「だれか!」
いまのリュシエラにできること。それは、だれかに頼ることだけだった。
「お願い、だれか助けて!」
喉が裂けるほど叫んだ。あとはもう言葉にならなかった。息ができなくなるくらい咳き込んで、吐き気までこみ上げてきて、苦しさと情けなさと悔しさでぐちゃぐちゃになった。
助けを求めることすら、満足にできない。
やり場のない怒りが絶叫になった。腹の底を震わせて、とにかく滅茶苦茶に喚き散らした。握りしめた草がブチブチと音を立てて千切れる。さらに強い感触を求めた指が、土を抉っては次々と投げ捨てた。
だがそんなものでは足りない。おさまらない。
悔しい。
悔しい、悔しい。
なにもできない自分が腹立たしい。
なんでもいい。
力が、欲しい。
爪が石に引っ掛かって、鈍い音をさせたところでリュシエラは動きを止めた。遅れてじわじわと痛みが襲ってくる。見れば爪の先が割れ、泥色の血を流していた。
糸が切れたようにその場に蹲った。わずかに胸に残っていた空気が、嗚咽とともに押し出された。
無力だった。
どうしようもなく無力だった。
疲れきった瞼が落ちる。ごめんなさい、と、頭のなかで呟いた。
そのときだった。
「どうしたの、あなた」
そんな言葉が、たしかに聞こえた。
飛び起きる。次いで左右に首を振る。さきほどまでと変わらない景色がそこにある。
心臓が大きく鳴っていた。それが本物である保証はなかった。けれど縋るものはそれしかなかった。
どうか現実であってほしい。なにが待ち受けていてもかまわないから。
拭いきれない不安を押し込めながら、リュシエラは体ごと振り返った。
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