小刻みな振動が体を伝う。薄暗く狭い荷馬車のなかで、リュシエラは小さく身を捩った。
「あ、ちょっと動かないでくださいよ」
とすかさず背後からアイザックの極限まで抑えられた声が飛ぶ。反論したいが、リュシエラの口は端切れで雑に封じられていた。
しかたがないので黙っていると、しばらくしてふっと手首が軽くなった。アイザックが縛めを解いてくれたのだ。彼自身はとっくに自力で縄抜けしていて、完全に自由の身となっている。
「ほら、あとは自分でできるでしょう」
と言われて首のうしろに手をやった。思った以上に固い結び目に苦労しつつ、なんとか猿轡を外して大きく息を吐く。振り返ってじっとりとした視線を送ると、アイザックは至極冷静に
「縛られるときにコツがいるんですよ」
と口で答えた。
「そんなことを訊いてるんじゃないわよ」
リュシエラは声にならない声を荒げた。
「どういうつもり?」
「どうって、このまま街まで連れていってもらうんです。ちょうどいいじゃないですか」
アイザックが馬車の進行方向に目を向ける。ふたりまとめて放り込まれた荷台はしっかりと外から目隠しされており、どんなに睨みつけても御者台の様子を窺うことはできない。だが、そこにあの善良な商人を装った悪人どもがいるということは明白だった。
「だからってわざと捕まるなんて」
「なら、あのまま迷い続けていたほうがよかったですか?」
静かな銀色の瞳がリュシエラを射抜く。
「そうじゃないけど……」
思わず視線を落とし、まだ解かれていない足の拘束をいじりながら口ごもれば、アイザックはつまらなそうに言った。
「どちらにしろ、あんなところで会う人間にろくなのはいないですよ」
がっちりと結ばれた粗い縄は互いに絡み合うようで、指をかけることすらままならない。少しでも動けば生身の肌に擦れて痛む。旧市街を出たときのまま靴などない状態で歩き回っていた足裏は、無数の小さな傷と泥でボロボロだった。
「まあ、とにかく」
と、ひとつ息を吐いたアイザックの手が、縄の食い込む足首に触れた。
「これがいま選択できる最善の方法であることはたしかです。大丈夫、ちゃんと機を見て逃げ出しますよ」
そう言う間に彼は難なく結び目をほどいている。手早く縄を巻き取ったその手は一見ほっそりしていて、女装であってもまったく違和感はない。だがこういうときに浮かび上がる筋や骨が、否応なくリュシエラに性別の違いを感じさせた。
「……ありがと」
なんとなく、むき出しのふくらはぎを隠しながら口のなかで言う。ちらと目を上げれば、なんともいえない表情のアイザックがこちらを見ていた。
「なに、その顔。どういう感情なの」
「いえ、べつに。強いていうなら無です」
リュシエラがさらに問い詰めようとしたときである。
荷馬車がふいに大きく揺れて、どさりと鈍い音がした。反射的にそちらを振り向くと、さきほどまでのリュシエラと同じように手足と口を封じられた女性が倒れている。捕まる直前に見た、先客だ。
「大丈夫?」
助け起こしてもほとんど反応はない。どうやら憔悴しきっているらしい。先客はもうひとりいて、彼女はかろうじて上体を起こしてはいるものの、弱々しく泣きはらした目で縋るようにこちらを見ていた。
「ねえ」
「駄目です」
振り返って発した呼びかけにアイザックの声が重なる。
「まだなにも言ってないじゃないの」
「言われなくたってわかりますよ。彼女たちの拘束も解いてやろうと思っているんでしょう?」
「わかっているなら」
「たとえばここで彼女たちを解放したとして、それで騒がれたり暴れられたりしたら不利になるのはこちらですよ」
再びリュシエラの言葉を遮ったのは、ひどく落ち着いた眼差しだった。苛立ちも、いたわりも、強さも弱さもなにもなく、ただただ当然のこととしてそれを口にするアイザックを、リュシエラは見つめ返すことしかできない。
「きみは存外いい子なんですね、リュシエラ」
アイザックがわずかに身を乗り出した。おもむろにその手が伸びる。指先が近づく。なぜかどうしようもなく募る不安に、目を瞑ろうとしたその瞬間。
強い力で抱き寄せられて、そのまま床に押し倒された。
頭を包むように、背中を庇うように、ぎゅっとまわされた腕の感触に息が詰まる。視界まで覆う肩を思わず押しのけようとすると、
「動かないで」
と耳もとでアイザックの声がした。
リュシエラは聞き逃さなかった。その語尾がほんのすこし掠れて、呻くように揺れたのを。
言われたことは無視して全身に力を込める。手のひらを押し返す筋肉がかすかに強張り、ほんのすこしだけ隙間が生まれた。そこからなんとか顔を出して、ようやく。
リュシエラの目にも、その緊急事態が見えた。
矢だ。
アイザックのちょうど右肩のあたり。馬車の外側から貫通した矢の先が、鋭く光っている。
息を呑む間にもう一本、視界の先に刺さって震えた。くぐもった叫び声が聞こえる。女性たちが泣いているのだ。
「動くな、って……」
間近にあるアイザックの端正な顔が歪む。リュシエラを抱いたままの腕がすっかり赤く染まるのに、さほど時間はかからなかった。
「血が!」
「掠っただけです」
いくらか荒い調子の言葉をかき消すように馬が嘶く。次いで派手な振動が馬車全体を襲い、そのせいで崩れた積荷が一斉に降りかかった。対処できぬまま一緒くたになって荷台のなかを転がされれば、悲鳴すら押し込めて歯を食いしばるしかない。永遠にも思える数秒をなんとか耐えきったとき、ひときわ大きな衝撃と重く乾いた音を立てて馬車は完全に停止した。
突如訪れた静寂に鼓動が響く。
一気に息を吐き出すと喉が震えた。
「……なんなの?」
と漏れた呟きを、アイザックの手が塞ぐ。未だリュシエラに覆いかぶさったままの彼は、自身の血で濡れた矢を一瞥するとため息とともに小さく告げた。
「考え得る限り最悪の展開になったかもしれません」
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