重く、風を叩く音。風の流れを変える音。
それが、亜人たちの羽音に混じって、だんだんと近づいてくる。
アイザックもそれに気づいたようだった。一度こちらを見てから、暗い空の向こうへ視線を巡らす。その場にいる全員が、そうしてじっと気配を窺っていた。
空気が揺れる。風が変わる。
それがつかの間ぴたりと感じられなくなったとき、
「上だ!」
アイザックが叫んだ。
真上。巨大ななにかが、月光を遮っている。それはこちらの存在をたしかめるように静止して、それから、吼えた。
「――竜!?」
唄うような咆哮が、鼓膜のみならず全身を震わせる。
「雲雀さん、鶯さん、目白さん!」
とアイザックが亜人たちに声をかけたが遅かった。直後、呼吸すら奪うすさまじい風圧。簡単に押し流される籠にしがみつき、リュシエラは悲鳴もあげられずに歯を食いしばった。
竜が羽ばたいたのだ。たったそれだけで、その六枚の翼は突風を巻き起こす。吹き飛ばされた亜人たちは、それでも空中で体勢を立て直した。しかし、それも無駄な努力となりそうだった。
「来ます!」
再び竜が近づいてくる。今度は、正面から。
風と、唄と、迫り来る巨体に圧倒されながら、リュシエラはしっかり目を見開いていた。竜の金色の瞳。それがすぐそばを通り過ぎる一瞬、リュシエラはたしかにそれを見た。
――……人?
竜の背に、跨る人の姿。
それになぜだか、妙に胸を締めつけられて。思わず、手を伸ばした。
「伏せて!」
アイザックの声に我に返る。仰向けに押し倒されるのと同時に派手な音がした。竜の尾だ。鞭のようにしなった太い尾が、亜人のひとりを叩いたのだ。
ガクン、と傾く感覚があった。そして、落下してゆく亜人の影。
「目白さん!」
悲痛な声は届かず、飛び散った羽根が、強風に煽られて瞬く間に彼方へと消えた。
残るふたりの亜人は懸命に羽を動かすが、思うようにいかないらしい。まだ周囲を悠々と泳ぐ竜に翻弄され、籠を落とさないようにするだけで精一杯のようだ。
この身が足枷になっている。このままでは全員、危ない。
そう直感したリュシエラの目に、ふときらめくものが映った。ちょうど真下。月光を反射して、波打つ、あれは。
水。川だ。大きい。
「アイザック!」
叫んだ。
「この縄を切りなさい! 飛び降りるわ!」
いつの間にか高度が下がっている。この程度なら、川に飛び込んでも生きてはいられるだろうと思えた。だがそれには、彼と繋がれた縄が邪魔だ。
アイザックは答えず、わずかに思案すると頭上に顔を向けた。
「雲雀さん、鶯さん!」
と亜人たちを呼び、頷きあって、それから、リュシエラを抱き上げる。
「ちょっと!?」
アイザックはそのまま籠のふちに足をかけた。わけがわからない。これではまるで、
「言ったはずです。落ちるときはおれも一緒ですよっ!」
一緒に。
飛んだ。落ちる感覚は、曖昧だった。ただ、強く抱きしめられるのを全身で感じた。長いとも短いともつかないその時間の果てに、リュシエラは急流にのまれた。
●
鳥が、鳴いている。
眩しさを知覚して瞼が動く。最初に見えたのは金色の光だった。
「……朝?」
ゆっくりと上体を起こす。そこらじゅうが痛い。どうやら強く打ちつけたようだ。きっと痣になっているだろう。でも、骨が折れたりはしていないらしい。
顔を上げれば、周囲には木が生い茂っているのがわかった。葉の擦れる音が心地よい。
無事、だった。
何度も水を飲んだのも、もう諦めたほうがらくなのではないかと思うほどの苦しさに悶えたのも、もはや夢のようだ。
「……ふふっ」
なぜだか笑いが漏れた。あとからあとから、おかしさがこみ上げてくる。止まらない。
「なに笑ってるんですか……」
そのうちに、隣に倒れていたアイザックが起き出した。すこし呻いて顔を顰めたが、大きな怪我はないらしい。
「うわ、どこだここ」
と辺りを見回している。足先を撫でる川の水が、ぱしゃんと音を立てた。
「リュシエラ、痛むところは……」
と言いかけたアイザックが、こちらを見て固まった。朝陽に照らされる顔は、やはりネンデーナとよく似ている。その顔が困ったように近づくので、あのぬくもりを思い出さずにはいられなかった。
「……なに泣いてるんですか」
ぎこちない指が、頬を拭う。
「痛いわ。痛いの」
「どこが」
「全部」
ああ、笑いが止まらない。
「こわかった……っ」
そのことが、こんなに嬉しい。
生きている。竜や、空や、川の流れよりはるかに小さな自分が、ここにいる。
存在している。
「アイザック。わたし、あなたと行くわ」
あふれる涙もそのままに、こぼれる笑いに噎せながら、リュシエラは言った。
「……いいんですか? おれも結局、きみを利用しようとしているんですよ?」
「わかってるわ、そんなこと」
どうせ、選択肢などないに等しい。だったらせめて自分で選んだと思いたい。この途方もない流れにただ呑み込まれるだけだとしても、自分の意志は信じていたい。
まだ生きていたい。
それだけを、いまは思った。
「それで、わたしはあなたにどう利用されようとしているのかしら」
ひとしきり笑って涙も流しきると、川の水で軽く顔を洗ったリュシエラはそう正面から切り出した。
アイザックがしばしうつむき気味に思案する。それから一度ゆっくりと瞬きをして、リュシエラの視線に応えた。
「助けたいひとがいるんです」
「助けたいひと?」
なんだ、人助けならそう身構えることもないだろう。そう、リュシエラは思ったのだが。
「サガン領主ペテル卿のご子息、ユライ=アユールさま。おれの恩人です」
どうやら、簡単な人助けとはいかないようだった。
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