〈王妃の庭〉に着いたころには、花はすこしくたびれていた。水に浸して持ってくるべきだったかもしれない。対外的には「女」として暮らすようになっても、どうもこういうことには気が回らない。
女官に花を渡して、案内された部屋に入る。〈王妃の庭〉はその名のとおり庭が大部分を占めていて、離宮自体は小さくて落ち着いた雰囲気がある。部屋も簡素だが、なんとなくぬくもりが感じられた。
しばらく待つと、コンコン、と扉が鳴った。
「はい」
応えればすぐに、見知った顔が現れる。
「ウイルエーリアさま」
「ごきげんよう、瑠璃姫さま」
前王后ウイルエーリアは、ともすれば質素にも見えるドレスを着こなし優雅に腰を折った。その美しさは衰えることなく、飾り気がないぶん、かえって若々しさが引き立つ。それもそのはずで、彼女はまだ二十八歳、もうすぐ二十七歳になるベルナールとほとんど変わらないのだ。十九歳である瑠璃姫から見れば、だいぶ年上ではあるのだが。
しなやかに歩いてくる彼女は小箱を手にしている。そのうしろには、女官の持つ花瓶が見えた。瑠璃姫の持ってきた菜の花と、小振りな薔薇やリナリアがともに活けられている。全体的に明るく、やさしい感じにまとまっていた。
「ちょうど庭園の花を飾ろうと思っていたところだったのです。おかげで釣り合いが取れました。ありがとう、とても綺麗ね」
ウイルエーリアはおだやかにほほ笑み、女官に花瓶の置き場所を指示すると、そのまま退がらせた。扉が完全に閉まるのを見届けてから、
「エヴェルイート」
と、いまでは呼ぶ者の少ない名を呼ぶ。
「……申し訳ありません。内親王殿下のことはまだ、なにも」
瑠璃姫は、応える代わりに押し出すように言った。アウロラの双子の片割れが、生きて聖都にいるかもしれない。その情報にいちばん心おだやかでいられないのは、ウイルエーリアであるはずだ。だが彼女はいつものように、笑みを崩さず首を横に振った。
「しかたのないことです。それよりも、あなたのことですよ」
「……わたしの?」
促されて椅子に座る。開け放した窓から、光と風が入り込んでいた。
「もっと自分のしあわせをお考えなさい。あなたにひどくつらい思いをさせたわたくしが言えたことではありませんが……だからこそ、もう囚われないでほしいのです」
「ウイルエーリアさま」
多くの悲しみや痛みを経験した彼女だからこその、言葉なのかもしれなかった。彼女は彼女なりにいろいろなものを受け止め、新たな時代を受け入れているのだ。
「そうだわ、大事なことを忘れるところでした」
と、声の調子を変えたウイルエーリアが、持っていた小箱を開けた。そのなかから彼女が丁寧に取り出したのは、瑠璃玉のついた象牙の櫛だった。
「あなたのものでしょう? すっかり返すのが遅くなってしまって……」
母の形見だ。数々の混乱のなかで失くしてしまったと思っていたのだが、どうやらずっと預かってくれていたらしい。たぶん、はじめてこの〈王妃の庭〉に来たとき、着替えとともにどこかに仕舞われてそのまま眠っていたのだろう。あの日、ティナがやさしく慰めてくれたことも、ウイルエーリアから王女の秘密を聞いたことも、いまとなってはもはやなつかしい。
「はい……大切なものです。ありがとうございます、ウイルエーリアさま」
受け取って、両手でそっと握りしめた。ウイルエーリアは「よかったわ」と目を細める。
あのころとは違い、彼女のことを「王后陛下」と呼ぶことはない。だがむしろいまのほうが、その身には「国の母」とでもいうべき雰囲気が備わっているように思えた。
「今日はいいお天気ですこと。すこし庭園を歩きませんか? 薔薇が見事に咲いたのよ」
と言われて窓の外に目を向けたときだった。
にわかに扉の向こうが騒がしくなった。かすかに聞こえるのは女性の声だ。泣き叫ぶような強い声と、それを宥めるような声。だんだんとそれが近づいてきて、なにが起きたのかだいたい予測がついたとき、
「ティナさま!」
という女官の制止を振り切って勢いよく扉が開けられた。
乱れた髪。青白い顔。肩で息をするティナは、寝衣に裸足という出で立ちでこちらを睨みつけていた。
「ティナさま……」
ここのところずっと体調が思わしくないと聞いている。いまにも倒れそうな彼女を見たら、立ち上がらずにはいられなかった。が、それが彼女を刺激したのかもしれない。
「……返して」
ぼそりと呟いたティナが、信じられないほどの力で飛びかかってきた。
「返して……返して、返してよ! あのひとを返して!」
受け止めきれずに倒れたところを、激しく揺さぶられる。
「ティナ!」
「ティナさま!」
ウイルエーリアや女官たちがティナを止めようとするが、彼女は瑠璃姫から手を離さない。
「返して! 返して、返して!」
悲痛な叫びが、次第に涙に濡れた。ふつりとなにかが切れたように、ティナの手から力が抜ける。瑠璃姫から引き剥がされた彼女は、床に座り込んで嗚咽した。
「……どうして」
答えられない。
「どうしてあなたなの、どうしてあなたが生きているの」
答えることなどできない。
「ねえどうして!」
何度問われても、なじられても。
「あなたが死ねばよかったのよッ!」
彼女の身を裂くような願いに、応えることは、どうしてもできない。
「……申し訳ありません」
立ち上がって、姿勢を正し、ただ、そう言うしかなかった。
「大丈夫、あなたはもう戻りなさい」
ウイルエーリアの静かな声に促され、ティナの泣き叫ぶ声に足を引きずられながら、瑠璃姫は〈王妃の庭〉をあとにした。
●
覚えている。
アレクシスの首が飛んだ瞬間を覚えている。
アウロラの体が彼の剣に断ち切られた瞬間を覚えている。
見開かれたまま役目を終えたアレクシスの目も、どんどん冷たくなってゆくアウロラの手も、彼を灰にした炎の熱さも、彼女を埋めた土の感触も、全部。
全部、覚えている。
そしてそれが自分のせいだということも、わかっているのだ。アウロラは瑠璃姫を守ろうとして実の兄に斬られ、アレクシスは瑠璃姫を守ろうとしたベルナールに殺された。
だから。
だからせめて、生きてゆかねばならないのだ。
その夜、瑠璃姫は早めに寝室に入ったが、とても眠れそうにはなかった。こういうとき、自然と足が向いてしまう場所がある。寝室を抜け出し、まだ明かりの灯るその部屋へ向かった。
「ああ、来たのか」
と、ベルナールはいつもどおり瑠璃姫を迎え入れた。ここは執務室ではないはずだが、机の上にも寝台の上にもさらには床の上にまで、書類が積み重なっている。
「いま片付ける」
そう言って寝台だけを手早く空けると、ベルナールは椅子に腰掛けて筆を持った。まだ仕事をする気なのだ。それもいつものことなので、瑠璃姫はなにも言わず、綺麗になった寝台に横たわった。
ベルナールのにおいがする。
わずかな灯に、金髪と紅玉の耳飾りがきらめいていた。このまま眺めていれば、いつかは眠れるかもしれない。けれど。
「ベルナール」
今日は、どうしても、あのきらめきが欲しい。
「まだ寝ないのか?」
一瞬、驚いたような顔をして、ベルナールはふっと目もとをやわらげた。筆を置き、背後から覗き込むように寝台に手をつく。
「……おねだりが上手くなったな?」
それからゆっくりと寝台に上がると、瑠璃姫を抱き寄せた。
うしろから包まれる。その体温に安心する。しっかりとこの体を捕まえる腕を、手を、逃がすまいと握った。
「忘れるな」
耳に直接届く声。
「この手だ。……忘れるな」
にじむ視界が、これ以上揺らがないように。瑠璃姫はそっと、目を閉じた。
その、三日後のことである。
珍しく、ウイルエーリアのほうから瑠璃姫に会いにきた。他愛もない話をして、おだやかなときを過ごしたのち、彼女は急に表情を曇らせてこう切り出したのだ。
「ずっと、言うべきか悩んでいたのですが……」
そのあとに続いた言葉に、どう返せばよかったのか。
「ティナは、妊娠しています」
まるで、世界が動きを止めたようで。
「……え?」
長い沈黙のあと、ようやく出せたのは、そんな、かすかな音だけだった。
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