「……ソラン?」
声のしたほうを振り返る。次いで聞こえてきたのは派手な足音だった。ドタバタと暴れるようなその音は、あっという間に近づいてきて少年の姿を取る。それを見た瑠璃姫はぎょっとした。
必死の形相で駆けてくるソランの、下半身が思いきり露出していたからだ。
「ソラン!?」
「お妃さまああ!」
どうしてそうなった、と問う間もなく飛びついてきたソランは瑠璃姫のうしろにまわり込み、隠れるようにその身を寄せた。なんとなく、本当になんとなくだが、なにかこう生あたたかい感触が太腿のあたりにあるような気がするのはあえて無視することにする。
「なんだ、どうした」
「変質者!」
「おまえのことか?」
上体を捻って覗き込めば、ソランは何度も激しく首を横に振った。それから恐るおそるといった様子で駆けてきたほうを指さす。つられて視線を移したが、そこには草原が広がるばかりだ。
「なにもいないじゃ――」
「キャアアアアッ!」
と今度は甲高い悲鳴があがった。これにはすぐさま反応した瑠璃姫は、目を向けた先に異様な影を認めた。
薄汚れた大きな塊。そこから伸びた泥と血にまみれた腕が、ティナの乗る荷馬車に迫ろうとしている。こちらに向けられた背には、翼。そう、傷ついてぼろきれのようになった翼が生えていた。それが垂れてもなお隠れない巨大な鉤爪。鳥の足。
亜人だ。
「ティナさま!」
跳ぶように駆け寄って、亜人の腕を掴んだ。強く引き寄せる。そうして振り向かせた顔に、
「……おまえ、」
見覚えがあった。
だがたしかめるまえに亜人の体がぐらりと傾ぐ。そのまま倒れ込んできたのを受けとめきれずに尻餅をついた。
「お妃さま!」
「大丈夫だ」
亜人に殴りかかりそうな勢いのソランを宥めて、胸の上にある顔を改めて見る。やはり間違いなかった。約二年まえの竜によるカルタレス襲撃事件のとき、イージアスを追って王都へ行こうとした夜に世話になった、春の一座の一員だ。最後にこの身を空中で放り投げていった顔なのでよく覚えている。
「わたしの知己だ、心配ない。それよりティナさまを」
言いながら体を起こし、ぐったりと動かない亜人をそっと地面に横たえる。呼びかけても瞼が開く気配はない。呼吸は浅く不確かで、褐色の肌には脂汗が滲んでいた。自分の衣服を裂いて、携帯していた飲料水で濡らす。血や泥を拭うと、大小の痛々しい傷口がいくつも現れた。
「お妃さま!」
「どうした」
「お姫さんが!」
というソランの悲鳴に息を呑む。手を止めて荷馬車を見れば、ティナが仰向けに倒れているのが見えた。
「すまない」
と亜人に小さく詫びて、ティナのもとへ駆け寄る。触れないように留意しつつ口もとに手を近づけると、規則的な呼吸が確認できた。
「大丈夫、気を失っているだけだ」
とは言ったものの瑠璃姫にも自信がない。見たところ異常はなさそうだが、腹の子に関してはその状態をたしかめようもなかった。
早急に専門家に診せる必要がある。ティナも、負傷した亜人もだ。
どうする。王宮へ引き返すか。いや、それではティナはともかく亜人の救護は望めないだろう。それにもうだいぶ遠くまで来てしまった。なによりこんな状態でひょっこり戻れば一大事だ。
考えながら再び亜人のそばに膝をつき、苦しげに歪む顔を覗き込んだ。すると視界に割り込むものがある。
セヴランから手渡された笛だった。
これを吹けば烏のフレンが来てくれる。彼女を通して連絡が取れる。まずは、知らせるべきではないのか。
そう思い至って、笛に手をかけたときだった。
新緑色の瞳が、突然脳裏にちらついた。
好きにすればいい、と言ったあの目が。すぐに逸らされて、後宮に向けられたあの目が。
きっとこれからはティナに向けられる、その、目が。
「――ソラン!」
振り払うように呼ぶと、思いがけず強い調子になってしまった。ソランが驚いて飛んでくる。悪いと思いながらも詫びることすらできず、瑠璃姫は震えそうになる声を必死に制した。
「近くに町があるはずだ。ふたりともそこで休ませよう」
ソランはいくらか戸惑う様子を見せたが、すぐに頷いて
「こいつ、大丈夫かな」
と亜人を見た。
「そうだな、応急処置はしたほうがよさそうだ。ソラン、手伝ってくれるか」
そう答えると琥珀色の瞳が輝く。それからもう一度大きく頷いた彼の姿に、瑠璃姫は救われるような思いがした。
「あ、でもさ……」
ソランがもじもじとこちらを見上げる。
「そのまえに、下、履いてもいい?」
これには苦笑するしかなかった。
「ああ、履いておいで」
いまさらながらに両手でそこを隠し、「あんま見ないで!」と言いながら駆けてゆくソランを軽く見送る。そうして手当てを再開したときには、瑠璃姫の心はだいぶ平静を取り戻していた。
とにかくいまは人命が最優先だ。手を動かしながら考える。
町に着いて、しっかり休ませて、落ち着いたら、笛を鳴らそう。それで現状を伝えたら、ティナとソランだけ安全に王都へ帰れるようにしてもらおう。この亜人についてはまた改めて考えなければならないが――と、傷つき汚れた翼に触れたとき、瑠璃姫はそこに妙なものを見つけた。
羽根である。いや、翼に羽根があること自体はなにもおかしくないのだが、それは鮮やかな色合いを持つ亜人のものとは明らかに異なっていた。
朝陽を弾くような、白銀の、巨大な羽根だ。
「……竜の、羽根?」
見間違うはずもなかった。手に取ってみるといよいよそうとしか思えない。よく見ればほかにも数枚、翼に埋もれるように付着している。
まさか、竜と接触して負傷したのか。
ぞわりと肌が粟立った。竜につけられた古傷が疼く。震える指を握りしめ、乱れそうになる呼吸をなんとか整えた。
あのときの恐怖を、体はまだ鮮明に覚えている。
「お妃さまー!」
と、ふいにソランの声があがった。ふっと肩が軽くなる。ひとつ息をつき、
「今度はどうした」
と振り向いた。
小走りでやってくるソランが見えた。そのうしろに、もうひとり。
「助っ人! 助っ人来てくれた!」
ソランがそのひとの手を引いた。清かな鈴の音がする。
「すげえよ、すげぇ偶然! でももう安心だぜ、巫女さまならどんな怪我でも治してくれる!」
やがて瑠璃姫のすぐそばで足を止めたソランが、嬉しそうに笑った。
「巫女さま……?」
幼い腕に促されて、見知らぬ女性が歩み出る。複雑に編み込まれたうえ、数本の束となって揺れる亜麻色の髪が印象的だった。その束の先に括りつけられた鈴がまた、鳴る。
「お困りのようですね」
その音に紛れるような、澄んだ声が耳に響いた。
「お手伝い、しましょうか?」
銀色の瞳が、眩しい朝陽のなかでやわらかく細められた。
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