さて、カルタレスでの仕事を終えて王都に戻ったアウロラはというと、荒れていた。
屈辱だ。こんな屈辱ははじめてだ。
「サイード!」
女官も連れずに王宮の長い廊下を歩きながら、声を上げる。すれ違う者たちの戸惑う様子が見えた。
「どこにいるの、サイード!」
「サイード卿なら、陛下のお供ですぞ」
ふいに背後から声をかけられ、立ち止まった。振り返ると、いまもっとも会いたくない男が立っている。
「……ベルナールさま」
「珍しく荒れておられるな、アウロラどの。カルタレスで亡霊にでも出くわしたか」
「まあ、冗談がお上手ですこと。でも、なんのことかしら?」
首を傾げて、ほほ笑む。この男にだけは、負けたくない。
「さて、なんのことかな。ただ私も、亡霊でもよいから会いたいものだと思っただけだ」
「……それ以上口を開けば、どうなるかわかりませんわよ」
「では我が国もなにをしでかすかわからぬな」
ベルナールがアヴァロン王宮に留まることになってから、ヴェクセン帝国にはなんの動きも見られない。自ら「人質」を買って出たベルナールだが、立場としては未だ使者、つまり客人である。使者として「交渉と、竜によるカルタレス襲撃事件の調査を続ける」というベルナールからの報告に、皇帝はただ「許可する」と答えたようだ。むろん、表向きは、の話である。ウルズ王国を挟んで、皇帝マティアス派とベルナール派が互いに牽制し合う状態が続いている。ふつうの見方をすれば、ウルズ王国にとっては嬉しくない状況であった。だが、
「その手の脅し文句がわたくしに通用するとでも?」
アウロラにとっては好都合だ。
「いいや? だがあなたは、私の気が変わることもある、ということを覚えておくべきだ」
「ええ、もちろん、肝に銘じていてよ」
言いながら立ち去ろうとしたアウロラに、ベルナールは食い下がった。
「ああ、ときにアウロラどの。……イージアスはどうしている?」
うるさい男。アウロラは苛立ちを隠しもせずに答えた。
「……まだ、尋問できる状態ではありませんわ」
「そうか。彼は我々にとっても重要参考人だ。くれぐれも、死なせぬように」
「言われなくても」
半ば怒鳴るように言い捨てて、アウロラは足早に歩き出した。さすがに追ってくる気配はない。苛々する。なぜこんな思いをしなければならないのか、アウロラにはわからなかった。もういやだ。早く全部なくなってしまえばいい。
足音を立てながら向かったのは、王宮の端に佇む古い塔である。むかしはここから竜が王都を見守り、有事の際にはそのまま飛び立ったりもしたらしいが、いまではほとんど使われていない。
見張りの兵に声をかけ、なかに入ると、ひやりとした空気が肌を撫でた。長い螺旋階段を上る。ときおり、鎧戸のない、鉄格子だけが嵌められた窓から風が吹き込んだ。
この塔には最上部にだけ、いくつか部屋が設けられている。そのうちのひとつを迷いなく選び、息を整えてから扉を開けた。
「イージアス」
呼びかける。返事はない。わかっていたことだ。
彼はぐったりと壁にもたれかかって座り込んでいる。その両の手首には鎖が巻かれ、頭より高い位置で壁に括りつけられていた。自然、項垂れるようなかたちになる顔を撫で、頤をそっと持ち上げると、ようやく見えた口には猿轡。うっすらと開いた目に、生気はなかった。
「ごめんなさいね、苦しかったでしょう?」
手の拘束はそのままに、猿轡だけを外す。瞬間、アウロラは不穏な動きを感じ取ってイージアスの口に自分の手を突っ込んだ。
「駄目よ。そんなことをするからこんなものをつけられてしまうのよ」
指をじわじわと口の奥に伸ばす。乱れた呼吸音が響く。嘔吐くように喉が動いたが、声は漏れなかった。
そう、まだイージアスの声は戻っていない。猿轡は声を封じるためのものではなく、舌を噛み切らないようにするためのものだった。
「あなたには生きていてもらわないと困るの。だから……ねえ? イージアス。いいことを教えてあげましょうか」
唾液が垂れる。アウロラの指を、手を、伝ってゆく。苦しげに歪められた顔を堪能してから、アウロラはイージアスを解放した。イージアスは咳き込み、嘔吐するが、なにも出てこない。食事もずっと拒んでいるのだ。
ああ、苛々する。
もう一度、先ほどより乱暴に顎を掴んだ。潤む瞳に自分が映ったのを確認して、アウロラは言った。
「おにいさまを殺したのは、わたしよ」
一瞬、呼吸すら失くしたイージアスの。
アウロラを映す目の色が、変わった。
「もう一度言ってあげましょうか? おにいさまを殺したの、わたし。失踪なんかじゃないわ。もういないのよ」
ことさら、ゆっくりと。
「わたしが、殺したの」
イージアスの瞳のなかのアウロラは、告げた。
手を離す。イージアスは再びうつむき、その瞳に映っていたアウロラも見えなくなった。ひどく乾いた風が吹いた。
「……生きなさい」
その風の音に紛れるような、呟きだった。
「生きて、わたくしを殺しにいらっしゃい。あなたなら、簡単にできるでしょう」
ほとんど独り言のような、願いだった。
「その声さえあればね」
反応を待たずに、部屋を出た。かつて、罪を犯した王女が処刑の朝を待ったというその部屋に背を向けて、アウロラは階段を駆け下りた。塔を出て、外の清々しい空気を吸い込んでもなお、走り続けた。
だれにも見られない場所へ。だれもいないところへ。
いや、違う。
もともと、だれもいなかったのだ。
そう思ったら、足が縺れて倒れ込んだ。その手を取る者は、ない。抱きとめてくれる腕は、もうない。
顔を上げると、不思議なほど濃い蒼色の空が広がっていた。
「……おにいさま」
――アウロラ殿下。
「おにいさま」
――失礼いたしました。お怪我はございませんか、殿下?
「おにいさま!」
――わたしはおやさしい殿下のお姿を拝見するだけで元気になれるのですよ。
「おにいさま……!」
――それなら、ローラは毎日おにいさまといっしょよ!
言えない。もう、そんなこと、言えない。
どんなに手を伸ばしても、泣き声を上げても。
それはだれにも、届かなかった。
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