薄着の身に、冷たい風が容赦なく吹きつけた。遥か前方には、ヴェクセン帝国との国境でもあるアロン山脈が見える。ということは、イージアスは北に向かおうとしているのだろうか。ぼんやりと考えながら、瑠璃姫は震えていた。
ヴェクセンには、なにがあるのだろう。寒い国だと聞いている。冬が長く、あまり陽が射さないのだと。ああ、だから彼はあんなに肌が白かったのだろうか。きっとあの黄金の髪は、冬空の下でも太陽のように輝くのだろう……。
どうして。
どうしてこんなに、あのひとのことを考えてしまうのだろう。
胸が痛んでたまらなかった。頭がくらくらする。体に力が入らない。
危うく落馬しかけたところを、イージアスに抱き留められた。額に手のひらが当てられて、そのひんやりとした感触に息をつく。寒くてたまらないのに、顔だけは火照っているようだ。イージアスが焦ったように舌打ちして、馬の腹を蹴った。
どうやら発熱しているらしいと理解したのは、イージアスが探し当てた廃村の、朽ちかけた小屋に横たえられてからだった。震えが止まらない。イージアスが小屋のなかを物色するのを、ぼうっと眺めていた。そのとき。
竜の唄が、辺りを包んだ。
おそろしいほどのうねりだった。まるで王国じゅうの竜が、一斉に声を上げたような。低く、高く、すべてを震わせる、どこか哀しげな響き。
知らず、体が強張る。
知っている。覚えている。あの日の星空が眼裏によみがえる。
頬を掠める竜の爪。ぼろぼろと落ちてゆく人の破片。炎と、瓦礫と、血と悲鳴。息ができなくて、苦しくて、なにも考えられなくて、
『私を見ろ』
あの手に、新緑色の瞳に、重ねられた唇にすがった、あの日。
痛い。――痛い!
竜に折られた腕が痛い。竜に切られた腹が痛い。もう引きつれた傷痕が残るだけのそこが、痛い。でも、なにより。
胸の奥が、引き裂かれるように痛い。
「……か、ないで」
こわい。
『ごめんな』
こわい。
『その名前、あまり好きじゃないんだ』
また、失ってしまう。遠く離れてしまう。竜の唄が、すべてを奪っていってしまう。
「いかないで」
行ってしまう。また。みんな。この手の届かないところへ。
「おねがい、いかないで!」
小屋の外に出ようとしていたイージアスが、ぎょっとしたように振り向いた。ふらつく体を叱咤して、戸惑い立ち尽くすその腕に追い縋る。
そばにいてほしかった。存在を感じさせてほしかった。もう、なにをしても手放したくなかった。
身に纏う寝衣に手をかけた。薄い布はするりと簡単に肌を滑り、肩と胸もとが露わになる。
だれでもいい。ぬくもりがほしい。求めてほしい。手放さないで、いてほしい。
触れる。首に手を回す。ゆっくりと顔を近づける。
イージアスの手が、頬に触れた。そっと瞼を伏せた。
その、次に待っていたのは。
ゴン、という鈍い音と、頭をかち割るような衝撃だった。
「痛い!」
思わず批難の声を上げて、頭突きを食らった額を押さえる。見上げれば、イージアスは「目が覚めたか」とでもいうような顔をしてこちらを見ていた。なにかを言おうとしたのだろう、口を開きかけて、苛立たしげに頭を掻く。それからため息をついて、瑠璃姫の着衣を整え、横向きに抱き上げた。
自然、朽ちた天井が目に入った。ところどころに空いた穴を埋める、薄暗い空の色。それが突然、真っ黒に染まった。巨大な影が横切ったのだと気づいたのは、嵐のような羽音と風が通り過ぎたからだった。
竜だ。夥しい数の竜が、群れをなして同じ方向へ飛んでゆく。
おかしい。こんな行動は、文献ですら目にしたことがない。先ほどまでとはまた違った恐怖と不安が胸に広がった。思わずイージアスにしがみつく。彼は苦い顔をするだけで、その異様な光景を見ようとはしなかった。淡々とした動作で瑠璃姫を床に寝かせると、物色を再開する。
瑠璃姫はしばらく黙って、天井越しの空を眺めていた。竜の影は途切れない。この国にいたすべての竜が、なにかに呼ばれて去ってゆくようだった。
なにか。きっとなにかが起きている。それをどうにかする力など瑠璃姫にはないし、どうにかしようとも思わない。自分のことしか考えられない。
けれど、もし、いま、ここにいるのが「エヴェルイート」だったなら。
すぐにでも駆け出してゆくだろう。なにもわからなくても。なにもできなかったとしても。とにかく動いて、足掻くだろう。
それが、たしかに自分の姿だったのに。
なぜできない。
なぜ、逃げることしかできない。
思い出したのに。正しい自分を思い出したのに。それでもまだ、なにも知らない「瑠璃姫」でいることを望んでいる。
いつの間にか、竜の姿はどこにも見えなくなっていた。静かだ。それに、暗い。もうすっかり夜である。
視界の端に、小さな光がちらついていた。どうやらイージアスが火を熾してくれたらしい。そのための材料が揃っていたのは幸運といえるだろう。しばらく忙しなく動いたあと、辛抱強く育てた炎に薪をくべながら、イージアスは瑠璃姫の向かい側に座った。
そのまま、火を挟んで黙って向かい合っていた。薪の爆ぜる音だけが聞こえている。火は暖かいが土の床は冷たくて、瑠璃姫は体の震えを止めることができなかった。眠る気にもなれず、炎のゆらめきとイージアスの顔を交互にぼんやりと眺める。
そのうちに、罪悪感が募った。イージアスは、ここにいるのが「瑠璃姫」であることを知らない。彼が助けたのは、助けたいのは、「エヴェルイート」なのだ。
「……ごめんなさい」
言わなければならないと思った。
「わたしは、違う。あなたの知ってるエヴェルイートじゃない」
イージアスはわずかにこちらを向いたが、すぐに火のほうへ視線を戻した。しかたがないから聞いてやる、と、言われているような気がした。
だから、すべて話した。瑠璃姫が生まれた経緯も、なにもかも忘れて過ごしていたことも、思い出したのに、こうして逃げてきたことも。それから、アウロラを追いつめたことへの後悔も、王后の願いに応えられないつらさも――ベルナールに対する想いも、すべて。ぽつりぽつりと話しているうちに、また、涙があふれてきた。
「ごめんなさい。あなたたちの望むものにわたしはなれないのに、わたしは全部求めてしまった」
苦しかった。いっそ消えてしまいたいと思った。あとはもう、ごめんなさい、としか言えなかった。
イージアスは、ただじっと瑠璃姫の言葉を聞いていた。しばらくそのまま考え込んでいる様子だったが、また盛大なため息をついて立ち上がる。するとなにを思ったか、おもむろに上衣を脱ぎ捨てた。
一度視界から消えた彼が、背後から近づいてくるのがわかった。顔の横に武骨な手が置かれる。イージアスの影が、ゆっくりと瑠璃姫に覆いかぶさった。思わず、目を閉じた。背中を持ち上げられ、ぐっと距離が縮まって。
気づけば、イージアスの膝の上だった。うしろから、全身を包むように抱きしめられる。体温が伝わる。あたたかい。冷たい床に触れる部分は、ほとんどなくなっていた。
その姿勢のまま、イージアスは床に文字を書きはじめた。一文字一文字、丁寧に、確実に刻んでゆく。
それが文章になったとき、瑠璃姫は息を呑んだ。
『それでいい』
たったそれだけの、短い言葉だった。
「……いいの?」
呟くように、問いかける。
「逃げても、いいの? 応えられなくてもいいの?」
『いい』
「欲しがっていいの? ここにいていいの? みんなが求めてくれるエヴェルイートじゃなくても? だれかに頼るだけの瑠璃姫でも?」
『それも全部、おまえだ』
文字が歪んで見える。それでも、はっきりとわかった。
『おれはおまえに会いたかった』
なにがどう変わっても、ずっと変わらずに、ただ、ひとりの人間として見てくれるひとが、ここにいる。
いや。見てくれていたのだ。きっと、みんな。最初から。ずっと。
ずっと。
パキン、とどこかで音がした。その音は連鎖して、やがて澄んだ響きを残し、やわらかな炎のなかに消えた。
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