王后ウイルエーリアは、高名な聖職者を多く排出している家の娘である。なかでも叔母は聖都アルク・アン・ジェの重鎮といえる役職についており、教会との関係が密接だった。そんな家に生まれた彼女が五歳という幼さで国王に嫁ぐことになったのは、当時即位したばかりでうしろ盾もなかった国王一派が、教会の力を欲したがゆえである。他に都合のよい女性がいなかった。ただそれだけの理由で結ばれた、当人たちの望まぬ縁だった。
当時二十八歳の国王と、五歳の王后。夫婦としてうまくやってゆけるはずもなかった。
それでも王后は、王后としての務めを果たそうとした。結婚したときにはすでに第一王子シリウスを産んでいた第三妃ゾフィアの視線に耐え、第二妃メリダのもとへ向かう夫を見送り、第二王子ダリウス、第三王子アレクシスの誕生を祝った。そうして初潮を迎えたとき、これでやっと父母やこの国の役に立てるのだと、泣いて歯を食い縛りながら夫に抱かれた。
ようやく子を授かったのが、結婚から十年経った、十五のとき。そして十六で迎えた出産は、彼女にとって最悪の日となった。
「すべてを呪いましたよ、あのときは。なぜ妾だけがこんな思いをしなければならないのかと」
待ち望んだ我が子は、命をかけて産んだ我が子は、王后の子として決して許されない、忌み子だった。それを見て、叫んで、彼女は気を失った。そして目覚めたときには、子はひとりしかいなかった。
忘れろ、と、夫に言われた。生まれた子はひとりだった。ありもしないものを見たのだ、忘れろ、と。
急に、悲しくなった。この胸に抱くことすらできなかった。顔を見ることすらできなかった。
「我が子の誕生を、喜ぶことができなかった……!」
王后の声が、揺れた。
「妾はアウロラを避けました。妾の罪を暴かれるようで、おそろしかった。あの子はそれでも、妾を母として慕ってくれました。そんなあの子から、妾は逃げ続けました」
そんな毎日のなかで、サイードからもうひとりの子が生きていることを告げられた。
「勝手なものです。それを聞いた妾は、その子のことが愛おしくてたまらなくなりました。アウロラのことは疎んじたというのに」
だから、ますます、アウロラを避けた。そんな母親の代わりに、サイードはアウロラのそばにいてくれた。そして王后はサイードからアウロラの成長を聞くことで、罪悪感を紛らわせてきたのである。
「それが、こんなことになるなんて……」
王后はついに涙を流した。瑠璃姫は戸惑ったが、みながよくやってくれたように、王后の手を取った。
「王后陛下、あの……なぜそのようなお話をわたくしに?」
気の利いたことが言えないのがもどかしい。王后は涙を拭って、瑠璃姫の手を握り返した。
「そなたには、知っておいてほしいからです。あの子がなぜそなたにあんなことをしたのか。なにがそうさせたのか。それがあの子の罪ではないことを、知っておいてほしいからです」
「……どういう、ことでしょう?」
「そなたは一度、アウロラに殺されたのですよ」
パキン、とどこかで音がした。
「思い出してください、そなたのことを。そしてどうかあの子のことを思い出して。あの子を救い出して……あの子を愛してやってください……!」
王后の声がぐるぐると頭のなかで渦を巻く。
「サイードもあらぬ疑いをかけられて囚われました。このままでは、もうひとりの我が子にまで危険が及ぶかもしれない。だから助けてほしいのです。思い出してほしいのです。そのために……そのためだけに、そなたをあの場から救い出しました。勝手でしょう? 気分が悪いでしょう? 妾を恨みなさい。妾だけを。けれどあの子は……あの子のことは、どうか許して、受け入れて」
――受け入れて。わたしを認めて。置いていかないで。ひとりにしないで。
短剣を振りかざした、あのときの王女の瞳が、急に饒舌に語りだす。
『どうして、来たの』
眼裏によみがえる、蒼い、どこまでも蒼い景色。
『わたくしの本心なんて、考えたこともなかったでしょう? わたくしがなにをしてきたか、なにをするつもりかなんて、知ろうとも思わなかったのでしょう?』
強い鈴蘭の香り。
『好きよ、おにいさま』
いまにも泣き出しそうな、その笑顔。
『たとえ、あなたの見ているわたしが幻影だったとしても』
思い、出した。
喉が震えた。獣じみた声が迸った。叫ばずにはいられなかった。
これが、「彼」の罪。いや、ちがう。
わたしの、罪。
「陛下!」
王后の腕に縋りつく。
「お許しください、わたしが、わたしがアウロラ殿下を欺いてきたばかりに! 殿下を追いつめたのはわたしです、わたしなのです!」
なぜ忘れていた。なぜ忘れていた!
逃げたからだ。彼女を置いて。ただ自分を守るためだけに!
「わたしは……」
彼女から目を背けた。彼女を見ないようにして、忘れて、安寧を求めた。彼女の求めるものになれず、彼女を傷つけた。彼女を知ろうともしなかった。拒絶されて、拒絶して。それでいてまだ、手を伸ばそうとしている。なぜ? 自分を正当化するためだ。罪悪感から逃れるためだ。なぜ。この手はなぜ、いつも中途半端なことしかできない?
なんのために。
なんのために、生きて。
「……わたしは」
結局、なんなのだ。
ふらりと立ち上がった。
「エヴェルイート?」
王后が、その名を呼ぶ。そうであるべきだった者の名を呼ぶ。
「……違う」
「え?」
「わたしは、何者にもなれない」
駆け出した。目指す場所は、ない。ただ、走らずにはいられなかった。
扉を押し開け、廊下を走り、だれかにぶつかりながら外へ飛び出した。風がうねった。灰色の空が鳴いた。
怖かった。自分がなんなのかわからなかった。だれが求めるものにもなれない。自分自身が求めたものにすら。「エヴェルイート」にも。「瑠璃姫」にも。だれにも。
それでも。
だれかのそばにいたかった。だれかに、そばにいてほしかった。
だれか。だれか。だれか。
だれかに見ていてほしい。この存在を認めてほしい。肯定してほしい。ただ、そこにいていいのだと言ってほしい。
「……だれか」
『おにいさま』
だれか。
ああ。
いま、やっとわかった。彼女の気持ちが。その孤独が。絶望が。
「だれか……!」
この手を、取って。
「だれか!」
ほとんど形にならず、ただ、張り上げただけの声だった。その、叫びに。
応えるように、木々が、揺れた。
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