パキン、とどこかで音がした。
その音で、「瑠璃姫」は我に返った。いま、自分はなにをしていたのだろう。まるで夢のなかにいたようで、判然としない。この感じには覚えがある。
……また、「彼」のしわざだろうか。
いつの間にか、目のまえに少女がひとり、立っていた。いまにも泣き出しそうなその顔は、はじめて間近で見たため個人を特定する判断材料にはならないが、彼女が身につけた華麗なドレスは他のものと間違えようもない。
王女さま。
そうだ、この方は「アウロラ内親王殿下」だ。「旦那さま」から聞いている。今回、この催しに誘ってくれた方。だが殿方に混じって狩猟に参加していたはずのその方が、目のまえにおられる理由がわからない。
瑠璃姫は、数秒まえまでのことを必死に思い出そうとしていた。たしか、殿方たちが野を駆ける様子を、貴婦人たちと一緒に眺めていたはずだ。あの方が素敵だとか、でもあの方のほうが家柄がよいだとか、そんな話を聞きながら。
瑠璃姫には、そのあたりのことはよくわからなかった。ただ、ずいぶん目立つひとがいるな、と思っていた。青みを帯びた黒髪のなかに、ひとりだけ眩しい光を放つ金髪。なぜだかなつかしいその色彩をじっと見つめていたら、親切な夫人が「ヴェクセン帝国のベルナール大公殿下ですわ」と教えてくれた。
ベルナール。
その名が、なにか、引っかかった。瑠璃姫のなかで、「彼」が反応したような気がした。
その胸のざわめきに気を取られている間に、悲鳴が上がった。みなが指差すほうを見ると、暴走する馬に振り落とされそうになっている少女がいた。「アウロラ殿下!」という叫び声に、ぞわりと肌が粟立って。それから。
それから?
やはり、思い出せない。なにがあって、こうして王女を見上げているのか。
いっそご本人に訊いてみるべきだろうか。いや、さすがにそれはよくないだろう。ならどうするべきかと自分に問いかけてみても、返事はない。「彼」はもう眠ってしまったようだ。いつものことだから、期待もしていなかったが。
どうしよう。
本当に困り果てたところで、馬蹄の轟きが聞こえた。振り向くと、大勢の人が馬で駆けてくるのが見える。そのなかに庇護者の姿を見つけて、瑠璃姫はほっと息をついた。
よかった。これでなんとかなるだろう。
ところがそれもつかの間、その群れのなかからひとつの騎影が飛び出してきたとき、瑠璃姫は呼吸を忘れた。
風に靡く金髪。だれよりも目立つそのひと。切羽詰まった表情でこちらに迫りながら、なにかを訴えている。
いや……呼んでいる。
なにを。
だれの、名を。
それをたしかめようとしたら、急に視界が白く染まった。
パキン、とどこかで音がした。
その瞬間、耐え難い頭痛に襲われて、瑠璃姫は意識を失った。
●
目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
どうやら、寝台に横たえられているらしい。まだすこし頭が痛む。ゆっくりと体を起こそうとすると、肩にだれかの腕が回された。
「……旦那さま」
すぐそばに、心配そうにこちらを覗き込む、老紳士の顔があった。瑠璃姫の庇護者である彼は、サイードという、たいへん高貴なひとだと聞いている。
「気分はどうだ」
「悪くはありません。わたくしは……また倒れたのでしょうか」
「そうだ」
「それは、ご迷惑をおかけいたしました。もうひとつお訊きしても?」
「構わぬ」
「ここは……」
どこなのでしょう、と言うまえに、答えが返ってきた。
「私の部屋だ」
知らない声だった。視線を移す。そこで、はっと息を呑んだ。
部屋の中央、毛皮が敷かれた椅子に、青年が腰掛けている。豪奢な金髪と新緑色に輝く瞳が眩しく、両耳には紅玉の雫が揺れていた。無駄なく引き締まった体躯をやや緊張させ、手と足を組むその青年の名を、瑠璃姫はもう知っている。
青年は一度深く呼吸をしたあと、立ち上がってこちらに歩いてきた。そして、静かに問う。
「私が、わかるか」
「……ヴェクセン帝国の、ベルナール殿下でいらっしゃいますね。本日のご活躍、拝見しました」
間違えてはいないはずだが、青年は瑠璃姫の言葉に衝撃を受けたようだった。目を伏せ、奥歯を噛みしめながら、押し潰したような声で言う。
「……本当に、覚えていないのだな」
それで、なんとなく、わかった。
「殿下は、わたくしをご存知なのですね。……申し訳ありません。忘れてしまって」
瑠璃姫には、ここ一年以外の記憶が、ない。
それは瑠璃姫が「生まれて」からまだ一年ほどしか経っていないからで、厳密にいうと「忘れてしまった」というのとはすこし違う。ただ、瑠璃姫が「生まれる」まえのことを知っている人から見ればそれは「忘れてしまった」のと同じであろうと思うので、いつもそのように言っていた。
「いや……すまぬ。責めているわけではないのだ」
青年、ベルナールは力なく笑って、膝を折った。視線が合う。
「あなたが、生きていてくれた。それだけで……」
と次第にうつむき、そのまま黙り込んでしまった。こういうとき、瑠璃姫にはどうしたらよいのかわからない。助けを求めるようにサイードを見ると、なぜだか軽く頷いて瑠璃姫の頭を撫でたあと、なにも言わずに出ていってしまった。
ふたりきり、静まり返った部屋に残される。ベルナールはうつむいたままだ。
どこか、悪いのだろうか。それともやはり、機嫌を損ねてしまっただろうか。いろいろと考えて、結局なにもできずにいる瑠璃姫に、ようやく、相手から声がかかった。
「……触れても、よいか」
それは、消え入りそうな声だった。
「あなたに触れても、よいだろうか」
今度は、もうすこしはっきりと。けれどちいさく揺れていて。
「あなたがここにいるのだと、たしかめてもよいだろうか」
あまりに、せつなく訴えるので。
「……はい」
断ることなど、できなかった。
あ、と思う間もなく、正面から、抱きすくめられていた。
不思議だ。知っている。この体温を、知っている。
「……髪が、伸びたな」
「そうなのですか?」
「それに、すこし痩せた。もとから細かったが」
「……そうでしたか」
「そうだ。そんな華奢な体で、いつも無茶をして」
「申し訳ありません、なにも……覚えていなくて」
「私が覚えている」
力強い言葉とは裏腹に、瑠璃姫を包み込むベルナールの腕はかすかに震えていた。
「私が覚えている。あなたのことも、あなたの大切なひとたちのことも。思い出したくないのなら思い出さなくていい。忘れたいことなど忘れてしまえばいい。もとに戻してやるとか、守ってやるとか、そんな傲慢なことは言わぬ。だから……」
息が詰まるほど、強く。
「頼む。……そばにいさせてくれ」
かすれた声で紡がれたその祈りにも似た言葉に、答えることは難しかった。これは、瑠璃姫が受け取るべき言葉ではない。
だから、せめてこのひとの震えがおさまるまでは、じっとしていようと思った。
答えることもできず。手を伸ばすこともできず。
そうして、そっと、目を閉じた。
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