アウロラたち兄妹の父イシュメルは、もともと国王になるようなひとではなかった。
先王が気まぐれに手をつけた身分の低い女の子で、十二人いた兄弟のなかでもっとも目立たない第四王子だった。とくに秀でたものを持っているわけでもない。人に好かれるような快活な性質でもない。内気でおとなしく、書物を供にひとりで閉じこもっているような少年だった。
ほとんど、いないものとして扱われていたのだと思う。そんな彼の唯一ともいえる友人が、エヴェルイートの祖父サイードだった。出会いはイシュメルが八歳のころ、サイードは十七歳で、すでに青年と呼べる年齢だった。年の離れたふたりが交友を持つようになったきっかけはわからないが、おそらくお人好しのサイードがひとりぼっちの父を放っておけなかったのだろう、とアウロラは考えている。
まだカルタレス領主ではなかったサイードはそのころ、縁談のために王都に滞在していた。時の王后の姪が、たび重なる不幸の末に嫁ぎ先から戻ってきていて、それを庇護した国王夫妻により受け入れ先を検討されていたのである。すでに両親も失い天涯孤独となっていた彼女との、なかなか事情の入り組んだ縁談がまとまるまでの二年間、サイードは頻繁に王宮を訪れ、イシュメルとも親交を深めていった。
サイードが王后の姪と結婚してカルタレスに戻ってからも、何度か会う機会はあったようだ。ただそのうちサイードがカルタレス領主になると、それもままならなくなった。イシュメルはまた独り、広い王宮の片隅に縮こまるようになった。
そうしてイシュメルが十二歳になったときである。王后が、末の王女を産んだ。アリアンロッドと名づけられたその大層美しい王女は、明るく、聡明で裏表がなく、そしてだれに対してもあたたかい眼差しを向けた。存在すら曖昧になっていたイシュメルを、彼女は「お兄さま」と朗らかに呼び、ひとりの人間としてほほ笑みかけた。ただひとり、彼女だけが。
しあわせだったのだろう。妹姫と過ごす時間は。イシュメルはいまでも、そのころの夢を見続けている。
やがて戦や病気、はたまた偶然(という名の陰謀だったかもしれない)により兄弟が半数にまで減ると、だんだんイシュメルを見る周囲の目も変わってきた。主に、母親の目である。
もともと、本当にただの気まぐれで国王のお手つきとなった彼女は、ないがしろにされる現状に満足していなかった。息子にも期待はしていなかっただろうが、他の女どもが産んだ邪魔者の減ったいまならば望みはあるかもしれない、とでも思ったのか。顔だけは美しかった彼女はその武器を使い、まずある重臣を誑かした。ここに、血統ばかりを重んじるこの国の欠点が出ているように思う。実力ではなく、家柄でその地位を獲得したその男もまた、現状に不満を抱いていた。厳格な王とその優秀な子どもたちは、彼をただそこに置いておくだけだったのだ。
彼らは同じような境遇にある者や、逆に血統だけが足りなくて燻っていた者たちを取り込み、仲間を増やし、そしてイシュメルを担ぎ上げた。自分たちに都合のよい王とするために。
だがそのためには絶対に排除すべき存在があった。イシュメル以外の王子、王女。そして、国王である。
イシュメルは純粋で、愚かで、両親の愛に飢えていた。母から突然「父王があなたを王太子にしたがっている」と言われたときは戸惑ったが、それ以上に喜び、父母の期待に応えようとした。
それからはもう、悲劇としか言いようがない。
「兄弟を殺さなければ王太子になれない、父上の望みを叶えられない」
そう言われた彼は、実際、王位継承順位最下位であったから、それを信じて頑張った。唆されるままに、殺した。ときに人に命じて、ときに自らの手で、ただひたすらに殺した。兄弟を、その母親たちを、意に沿わない重臣たちを。それらは父王が遠征で不在の間に、驚くほど迅速に行われた。
やがてイシュメルとその母、それから王后の子である第三王子と末姫アリアンロッドだけが残った王宮に、父王が帰還した。いちばん厄介な存在である王后はすでに葬ったあとだった。父王はそれに激怒し、嘆き、イシュメルを王宮から追放した。
イシュメルは絶望し、父王を恨んだ。それが、内戦に発展した。
その結果は、記すまでもない。イシュメルは内戦後数年を経て、二十七歳で即位した。
すべてを排除したイシュメルは、しかし、アリアンロッドだけは殺さなかった。否、殺せなかった。そこでアリアンロッドと同じ年に生まれたサイードの息子のもとへ嫁がせ、王位継承権を剥奪したのだ。ちなみにそのころブロウト家では、前王后の姪であるサイードの正妻が、夫の手にかかって命を失っている。そのことが原因で、現在でもサイードと息子ヴェンデルの間には確執がある。
イシュメルが王となってからも悲劇は終わらなかった。母に利用されていたと気づいたイシュメル王は、その手で母を殺した。そして孤独な彼はサイードを求め、サイードはカルタレス領主の座を息子ヴェンデルに譲ってそれに応えた。
王になったときから、いや、もっとずっとまえから、彼の心は蝕まれていたのだろう。
いま、アウロラの腕のなかで泣くイシュメルは、完全に壊れていた。
「お兄さま」
ひとまず自室に父を連れ込んで、アウロラは甘く囁く。
「……大丈夫よ、お兄さま」
そして慰める。彼の望む言葉で。
「だいじょうぶ」
父の目に映る景色が、いつのものなのかアウロラにはわからない。いろいろな時間のなかで、揺れているのかもしれない。だが、父の求めるものだけは、はっきりわかっていた。
「ちゃんとここにいるわ、お兄さま」
「……アリアンロッド、僕、僕は、」
わかっていた。エヴェルイートが王宮から去り、そしてアリアンロッドの訃報が届いたあの日、父の崩壊は決定的になったのだと。アリアンロッドの子であるエヴェルイートと自分が婚姻を結ぶことで、父の心を救うこともできたかもしれないと。でもそれがどうしても叶わないことも、そうしたくないと願う自分がいることも、わかっていた。
父がひそかに手もとに残していた、家族の肖像。
前の王と、王后、その子どもたちが描かれた、あたたかい世界。父本人はどこにもいないその絵のなかでしあわせそうに笑うアリアンロッドが、あまりにもエヴェルイートに似ていたから。アウロラの愛しいひとに、父の思い出と叶わぬ願いを、重ねてほしくなかったから。
「お兄さま」
「アリアンロッド……」
父はアウロラを見ようとはしないけれど、アウロラは狂おしいほどに父を見ていた。そして理解していた。こんなにも、同じものを求めている。
間違いなく、自分たちは親子だった。
「お兄さま」
「アリアンロッド」
父の手が、舌が、まだ成長の兆しも見せないアウロラの胸を這う。アウロラは慣れた手つきで、自ら衣服を脱ぎ捨てそれを受け入れた。
「お兄さま、お兄さま――」
手を、伸ばす。その先に、
「――おにいさま」
アウロラの求めるものは、なにひとつなかった。
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