山のなかは相変わらずのどかだった。カルタレスの背中にあたり、隣の領地との境でもあるこのソアイル山ではわりとよく諍いも起こるのだが、今日はそういうこともなさそうである。これなら、ひどく体力を消耗する「抜け道」を使わなくてもカルタレスから出られるかもしれない。
「山瑠璃、どうする? このまま〈上〉で行く?」
と少年が問うと、
「そうねえ、この感じならそれでもいいような気はするけど……一応、見つからないように〈下〉で行きましょうか」
山瑠璃が頬に手を当ててのんびりと答えた。
この国の主要都市の地下には水路が敷かれている。そのなかには枯れて打ち捨てられた古い時代のものもあり、山瑠璃たちはカルタレス周辺のそれを把握し抜け道として使っていた。かつて少年がリュシエラの匂いを追ったあの地下通路も、その一部である。「〈下〉で行く」というのはつまり、「地下水路を使う」という意味だ。
「だよねー。ほら花梨、だから言ったじゃん」
「あたしなんにも言ってないし言われてもないんだけど!?」
花梨の声が響いた。「うるさいヨ」と七星が耳を伏せ、山瑠璃がくすくすと笑う。それらに反応したのか、鳥の群れが音を立てて飛び立った。
〈下〉で行くと言いながら山道を歩いているのは、カルタレスの水路とサガンの水路が繋がっていないためだ。カルタレス側のものはちょうど『燕の巣』のあるあたりで終わっていて、サガン側のものはこの先にある洞窟から伸びている。身の安全を考えるならば早くそこまで行って姿を隠したほうがよいのだろうが、少年は気が進まなかった。
「やだなぁ、洞窟。寒いし、暗いし、疲れるし」
一度ためしに歩いたときには散々な目に遭った。感覚がなくなるほどの冷水に腰まで浸かり、岩と岩の狭い隙間を這いつくばって抜け、あるいはよじ登り、何度もぶつけた頭からは血が流れ、蝋燭の灯りなどなんの役にも立たない。やっと広い場所に出たと思ったら蝙蝠に襲われるし、得体の知れない虫はいるし、水路として整備されたところまでたどり着ければあとはらくなのだが、とにかくそこまでがつらすぎる。
「先生、体力ないものねえ」
「運動神経もネ」
山瑠璃と七星が続けて言う。花梨が少年を庇うように進み出た。
「しょうがないよね。先生まだちっちゃいもんね。ほら、おんぶする?」
「花梨の言葉がいちばん傷つく……」
「え!? なんで!?」
まあ、この三人と一緒ならば退屈はしないかもしれない。それにそこさえ抜けてしまえば、あとはゆっくりできるのだ。面倒なことは考えなくて済む。
そう、思っていたのだが。
少年はふと、気配を感じて立ち止まった。
花梨や七星もそれに気づいたらしい。耳や鼻を緊張させて辺りを窺う。
彼女たちの感覚は、純粋な亜人ではない少年よりも鋭い。そのふたりが揃って反応したのなら、間違いはなさそうだ。
なにか、いる。それもとびきり厄介なものが。
「どうしたの?」
唯一の人間である山瑠璃は、きょとんとした顔で首を傾げている。その口を塞ぐように手で合図すると、花梨がそっと駆け出し、そのまま軽やかに高い木のてっぺんまで登った。どんなときでも遺憾なく発揮される身体能力の高さはさすがだ。どこか誇らしい気持ちで、それを見上げた。
そのときだった。
花梨の肩を、矢が貫いた。
「花梨!」
落ちる。
咄嗟に手を伸ばすも、届くはずもない。ぐらりと傾いだところに、もう一矢。幸いそれは頬を掠っただけだったが、花梨は派手な音を立てて落下した。
「花梨!」
「きゃあ、花梨!」
悲鳴を上げる山瑠璃たちを置いて、少年は逸早く花梨に駆け寄る。
「ったたた……」
とおどけたように笑って、花梨はすぐに上体を起こした。そのまま立ち上がろうとするのを押しとどめる。
「動かないで。頭は? 打ってない?」
「大丈夫……一応、足から着地したから」
「よかった。それ以上馬鹿にならなくて」
「ああん?」
などとやっているうちに、山瑠璃と七星も追いついた。
「花梨、花梨、血が出てるヨ」
「そりゃ出るよ。あたしだってバケモノじゃないんだからさ」
めずらしくうろたえる七星に、花梨はいつものように笑ってみせる。それがひどく、痛々しかった。
少年には矢傷の手当てなどできない。歯噛みしながら、それでもできることを考えた。花梨の肩に突き立った、長い矢が目障りだった。
「花梨。とりあえずこれ、折っちゃうね」
突き出た部分が引っ掛かれば、傷を抉ってさらに拡げることになる。ごめん、と小さく謝って、矢柄に手をかけた。花梨がほほ笑んだのを確認してから、ありったけの力を込める。矢の折れる鈍い音と小さな呻き声のあと、少年と花梨は同時に息を吐いた。
「ありがとね、先生」
感謝されるようなことはなにもしていない。なにもできないのに、花梨はそう言ってまた、笑う。
「ばーか。花梨。ほんと馬鹿」
「うん。ごめんね」
頭を撫でる花梨の手が、熱い。喉が詰まりそうになるのを必死に隠しながら、少年は山瑠璃に問いかけた。
「これ、カルタレスのほうから飛んできたよね。おれたちのこと捕まえにきたのかな」
「わからないわ。とにかくいまは逃げましょう。花梨、立てる?」
と言う山瑠璃の声に重なって、再び矢が風を切る音が聞こえた。続けざまに数本、少年たちの後方にある木や岩にぶつかって落ちる。
「洞窟へ! 急いで!」
山瑠璃が言いながら花梨の肩を支えた。少年は反対側からそれに加勢し、七星は全員分の荷物を素早く回収する。花梨が立ち上がったのと同時に、全員で走り出した。
何度も躓きそうになりながら駆けた。励まし合いながらひたすらにまえを向いた。違和感に気づいたのは、目的の洞窟がすぐそこに見えてきたときだった。
おかしい。こちらは怪我人も抱えていて、とても速いとはいえない足で走っている。なのに、こんなにあっさりと逃げきれるものだろうか。
追われているのはたしかだ。ときおり矢が飛んできた。でも、それだけだ。矢はだれにも届かなかったし、追手の影すら見えなかった。
単純に追いつけなかったというのならそれでいい。けれど、もし、わざとそうしているのだとしたら、それは。
逃げることを諦めさせないためだ。
この方向に逃げさせるためだ。
「っ駄目だ!」
遅かった。先に行って灯りをつけようとしたのだろう、七星が荷物をまさぐりながら洞窟に飛び込むのが見えた。駄目だ。行っては駄目だ。
罠だ。
短い悲鳴が聞こえた。足が止まった。それ以上、進むことも戻ることもできなかった。己の愚かさに力が抜けた。
まんまと、誘い込まれたのだ。
「ああ、やっと来たの?」
暗がりの奥から、声が響いた。やけに悠長な男の声だった。
「もう、僕すっかり冷えちゃったよ。キミたちって、のろまさんなんだね」
足音が聞こえる。洞窟のなかから。無数の足音が。金属の擦れるような音が。
「待ってたよ、春の一座のみなさん」
嘲笑うような音が、聞こえる。
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