結果からいうと、王女からのお咎めは一切なかった。だれかに言うつもりもないという。感謝の念と同時に、罪悪感が押し寄せた。ただでさえ背負うものの大きい少女に、余計な負担をかけてしまった。
「殿下、申し訳ありません」
「おにいさまが謝る必要なんて、ないわ」
アウロラ王女はそう言ってほほ笑んだ。一方、イージアスはよほど驚いたのか、呆けたようにずっと黙り込んでいる。
「すまない、イージアス。自分のことを隠していたのはおれも同じだ。なのに、おまえを責めるようなことばかり言った」
イージアスは首を横に振ったが、やはり言葉はない。ちなみにいま、エヴェルイートはイージアスの上衣を借りて羽織っており、イージアスにはいささか寒い思いをさせてしまっている。
「頼む、なにか言ってくれないか。けっこう不安なんだ」
すると、イージアスは困ったように口を開閉させた。が、声にならない。それでようやく思い至った。
「おまえ、もしかして声が……」
「ええ、出なくなってしまったの」
答えたのは王女だった。
「とても怖い思いをしたり、悲しい思いをしたりすると、声が出なくなることがあるのですって」
「…………」
エヴェルイートは暫し考えた。
「それは……イージアスのことをおっしゃっているのですか?」
「そうよ」
どうしても、王女の説明とイージアスのふてぶてしい顔が結びつかない。
「……殿下、失礼ながら、なにかお間違えなのでは? この男にそんな繊細な感性があるとは思えな――、痛いな!」
最後の怒声は、イージアスに頭を叩かれたことへの抗議である。叩いた本人は、しれっとしていた。その様子を見ていた王女が、くすくすと笑う。
「よかった。すこしは元気になったみたいね」
それに反応して、イージアスが顔を背けた。エヴェルイートは、問いかけるように王女を見た。
「ずっと元気がなかったから、心配していたの。でも、さすがね、おにいさま。きっとイージアスの声を取り戻せるのは……おにいさまだけなのね」
王女は、わずかに目を伏せた。
「来て」
それから、エヴェルイートの手を取って歩き出した。イージアスもそれに従う。
そこではじめて、エヴェルイートは周囲の景色を視界に入れた。一見、広大な庭園のようだが、それにしては装飾がない。あまり手入れもされていないようだ。ぽつぽつと建っている小屋は朽ちかけ、雑草が生えている。
「殿下、ここは」
「竜舎よ」
言い終わるまえに、王女が答えた。
竜舎。ウルズ王国の、パルカイ民族の、かつての栄光を伝える場所。その存在を聞いたことはあったが、実際に目にするのははじめてだった。ここが、そうなのか。
その昔、パルカイ民族がまだ竜を操る技を持っていたころ、ここには竜があふれていた。広いアヴァロン王宮のなかでも随一の面積を誇る、もっとも重要視されていたその場所。いまは忘れ去られ、風が吹き抜けるのみである。
それでもパルカイ民族は、竜舎を取り壊そうとはしなかった。
「……竜が、いたのですね、ここに」
「いたのではないの。いるのよ、いまも」
エヴェルイートは息を呑んだ。いる。竜が、ここに。すぐ近くに。あの夜の光景が蘇る。途端、身体がいうことを聞かなくなった。手足の先が冷えて、震える。それに気づいたらしいイージアスが、ぎこちなくエヴェルイートの手を握った。アウロラ王女の手にも、力が入る。半ばふたりに支えられるように、歩いた。
しばらく行くと、石の壁に鉄格子が嵌められた、巨大な檻が連なって見えた。そのうちのひとつに、白い巨体が蹲っている。エヴェルイートはそれ以上進めなかった。王女は気遣うように一度エヴェルイートを見上げたあと、怯むこともなく檻に近づいていった。イージアスは、まだ手を離さずにいてくれる。
「この子はね、十三年前、イージアスと一緒に連れてこられたの」
王女が、竜に触れながら言った。
「殿下……!」
「大丈夫。おとなしいから。それに……弱っているの」
やさしく竜の毛並みを撫でる。竜はわずかに吐息を漏らしたが、動かなかった。
「おにいさま。竜だって野生の獣だから、絶対に人を襲わないとは言えないわ。けれど、こちらからなにかをしなければ、本来その危険性はとても低いの」
それはエヴェルイートも知っているが、だからといってこの状況は安心できない。そもそも人に馴れない竜だからこそ、古のパルカイ民族はそれを武器にできたのだ。
「だからね。わたくし、やっぱりおかしいと思うの。カルタレスを襲った竜たちは、なにかに操られていたのではないかしら?」
「それは……私も疑いましたが、しかし」
「わたくしは、ヴェクセン帝国だと思っているわ」
きっぱりと言いきった王女の瞳に、思わずたじろいだ。エヴェルイートの両耳で、紅玉の耳飾りが揺れる。
「……、殿下」
「シリウスお兄さまが」
エヴェルイートの言葉を遮った王女の語気は、鋭い。
「シリウスお兄さまが、ヴェクセンのマティアス帝と手を組んだの」
この、少女は。こんな目をするような子だったろうか。
「それでわたくし考えたのだけれど、ヴェクセンのほうでもなにか問題が……たとえば、マティアス帝とベルナール大公が対立しているとしたら、あのカルタレスでの出来事は、シリウスお兄さまとマティアス帝にとってはいいことしかないわ」
背筋が冷えた。あの無邪気に駆け回っていた少女が、たった五年でなぜ、こんなことを話すようにならねばならないのか。この五年で、彼女はいったい、なにを見て、どんな思いをしてきたのか。これが王女の背負わねばならぬものだとしたら、あまりに重く、悲しすぎる。
「……おにいさま? どうなさったの? どこか痛いの?」
こうして気遣ってくれるやさしい心は、あのころと変わらないというのに。
「おにいさま」
駆け寄ってきた王女を、跪いて抱きしめた。
「申し訳ありません、殿下。申し訳ありません……」
なぜ自分は、男として生まれなかったのだろう。男であれば、彼女を支えることも、できたかもしれないのに。
「おにいさま……」
突然の無礼な行動にも、王女は寛容だった。逆に包み込むように、エヴェルイートの髪を撫でた。だから、
「……おにいさまは、本当におやさしいのね」
このときの彼女の表情を、エヴェルイートが知ることはなかったのだ。
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