『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』
もしもエヴェルイートが我々と同じ現代に生きる日本人だったら、そんな万葉の歌を思い出したかもしれない。
十歳になったアウロラ王女は、以前のように駆け寄ってきたりはしなかった。代わりに破顔して、親しげにイージアスの手を取った。イージアスはすこしだけ王女を見て、またエヴェルイートのほうに視線を戻す。それから王女にそっと背中を押されて、一歩まえに出た。
それ以上は、近づこうとしなかった。その場に跪き、そして、エヴェルイートに対して頭を垂れた。
心臓を殴られたような気分だった。エヴェルイートは反射的に駆け出した。まっすぐ走って、その勢いのまま左手でイージアスの胸ぐらを掴み、思いきり頭突きをかました。視界に星が散ったが掴んだ服は放さず、背中から倒れたイージアスに覆いかぶさるように馬乗りになると、ぐいと左手を引き上げた。抵抗はない。その事実が、エヴェルイートの腹の底を唸らせた。
「……なんだよ、それ」
俯いた。地を這うような声が出た。
「そんなものか。おまえにとってのおれは、そんなものか。そんなに簡単に、なかったことにしてしまえるものか。答えろよ。おれたちの関係は、そんな希薄なものだったのか」
イージアスは動かない。答えない。
「全部嘘だったのか? おまえがおれに見せたものは、全部嘘だったのか? おれは虚構を見せられていたのか? おれの知っているおまえは幻影だったとでも言うつもりか? ……そんなわけねぇだろ!」
顔を上げた。目が合った。
「おまえ、あのときどんな顔してたかわかるか!? いまどんな顔してるかわかるか!? 情けない顔しやがって。勝手に背負って、勝手にいなくなって、勝手になかったことにしようとしやがって! ふざけるなよ、なにも知らないくせに!」
と、そこで額に強い衝撃を受けた。ひっくり返されて、背中を打つ。やり返されたのだ。胸ぐらを掴まれて馬乗りされ、形勢は完全に逆転した。ただ、いくら待っても反論はなかった。代わりに、大粒の雫がばらばらと降ってきた。
歯を食いしばって、呼吸さえ噛み殺そうとするようなくしゃくしゃにつぶれた顔が、目のまえにあった。
「……へんな顔」
しかたがないから、エヴェルイートはイージアスの頭を抱き寄せて自分の肩口に押しつけ、その顔をこれ以上見ないようにしてやった。
「なあ、イージアス。おれもおまえのこと、まだなにも知らない。だから、手放してなんかやるもんか。ざまあみろ」
肩が濡れてゆくのがわかった。いっそう強く抱きしめた。たとえ苦しいといわれても、放してなどやるものか。
朝陽が、景色をあわい黄金色に染めはじめていた。風が吹いた。陽に融けることも、風に靡くこともない、たしかな存在を実感した。
しかし。ふと、不安がよぎる。なにか忘れているような気が、する。
「……おにいさま、おにいさま。あのね」
遠慮がちにかけられた声に、エヴェルイートは飛び起きた。いや、実際にはイージアスが邪魔で、ビクリと跳ねただけだった。重い。
「アウロラ殿下……!」
「あ、いいの、どうぞそのままで。でもね、ちょっと苦しいのではないかしらと思って」
「まったくもってそのとおりでございます!」
まずい。一国の王女を差し置いて、感情のままに振る舞ってしまった。あまつさえ、こんな格好で言葉を交わすなど。
「申し訳ございま……重い、イージアス! どけ!」
「いいの! いいのよ、おにいさま! わたくしがお邪魔してしまったの! あ、わたくしちょっとお散歩してくるわね!? どうぞごゆっくり!」
「違います、誤解です、お待ちください、殿下!」
たぶん、互いになにを言っているのかわかっていない。とにかくなにをどうすればよいかもわからぬままなんとかしようとして、エヴェルイートは強引に立ち上がる動作をした。が、そのとき、ビリッと鋭い音がして、動きを止める。
「あ?」
見下ろす。固まる。服が破れて、素肌が、乳房が、朝陽に晒されていた。
「あーっ! 服がっ!」
「そうじゃないわ、おにいさまっ!」
アウロラ王女のちいさな体が、勢いよく飛びついてきた。
「見てはだめよ! イージアス、見てはだめですからね!?」
エヴェルイートに抱きつくような格好になった王女は、どうやらイージアスの目からあられもない姿を隠そうとしてくれているらしい。だが、エヴェルイート本人はそれよりも大事なことで頭がいっぱいだった。つまりこういうことだ。ウリシェに怒られる。
「殿下、お構いなく……」
「構います! もう、見てはいけませんってば、イージアス! あちらを向いて!」
イージアスはというと、エヴェルイートの服の切れ端を握って呆然としている。そんな状態の彼に、エヴェルイートは思わず問いかけた。
「イージアス、おまえこれ直せる?」
「おにいさまはどうしてそんなにのほほんとしていらっしゃるの!?」
ウリシェに怒られるまえに、王女に怒られた。言われてみれば、たしかにそうだ。
エヴェルイートはもう一度、視線を落とした。無惨に引き裂かれた服を、アウロラ王女が懸命になんとかしようとしてくれているが、エヴェルイートの胸のかたちは隠せていない。なにより、先ほどしっかり見られているし、いままさにその箇所に触れられているのだ。誤魔化しようもない。
そうか、ばれたのか。
じわじわと、自覚した。では、もう、無駄なのだ。本意ではなかったとはいえ、ずっと王や王女を欺いてきた。父はどうなるだろう。ウリシェは、カルタレスのみんなは、どうなるだろう。ああ、馬鹿だ。なんのためにここまで来たというのか。
乾いた笑いが漏れた。笑い出すと止まらなかった。
「おにいさま……?」
王女が不安げに見上げてくる。無垢な瞳が、射抜くようだ。
「殿下、わたしは、」
あなたを欺いていました、と、言おうとした。瞬間、汗が吹き出た。喉が詰まった。覚悟など、なにひとつできてはいなかった。
「……おにいさま」
王女が、すりと頬を寄せた。
「わたくし、知っていたわ」
信じられない言葉が、聞こえた。
「ごめんなさい。知っていたの。見てしまったの。おにいさまが苦しんでいるのを知っていながら、なにもせずに、黙っていたの」
強く、つよく抱きしめられる。
「ごめんなさい。苦しませて、ごめんなさい。巻き込んでしまってごめんなさい。わたくし、それでも……あなたのとなりで生きる未来を、夢見ていたかったの」
消え入りそうな声を大きく震わせながら、それでも王女は、泣かなかった。エヴェルイートは、ゆっくりと王女の背に両手を回した。熱いくらいに、その体温を感じた。
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