その後はシリウス王子からの接触もなく、それなりに平穏な日々を過ごしながら、エヴェルイートは王宮で四度の誕生日を迎えた。
その間に、王女の夫候補たちはぽつぽつと王宮から去り、いまや残るのはエヴェルイートひとりとなっている。「さすがにもう帰りたいな」などとぼやいてみても、返ってくるのは「無理ですね」というようなウリシェの素っ気ない言葉だけであった。そうだろうな、とは思う。国王がそれを許さないからである。加えて、もうひとつの理由がすくすくと成長していた。
アウロラ王女、そのひとである。
「おにいさま!」
ちいさな足音が、回廊に響く。
「アウロラ殿下」
呼ばれて振り向けば、四歳になった王女が駆けてくるところだった。あまりに急いだ様子なので、転んではいけないと思い、こちらから迎えにゆく。案の定、王女は途中わずかな段差に躓き、つんのめった。その幼い体を、エヴェルイートが既のところで抱きとめる。
「失礼いたしました。お怪我はございませんか、殿下?」
王女はしばらくエヴェルイートの腕のなかでキョトンとしていたが、やがて驚いた顔をして離れていった。
「まあ! おにいさま、すごいのね!」
「すごい、ですか?」
「だって、さっきはあんなにとおくにいたわ!」
王女が回廊の端を指差す。エヴェルイートにとってはたいした距離ではないのだが、王女にとっては果てしない道のりに見えるのだろう。ほほ笑ましく思いながらエヴェルイートは答えた。
「殿下がいらっしゃるのが見えましたので、わたしもつい夢中で駆け出してしまいました」
すると、愛らしい笑顔を見せていたはずの王女が、急にその大きな瞳を潤ませた。
「たいへん! ごめんなさい、おにいさま!」
「殿下? ……いかがなされましたか」
エヴェルイートは落ち着かせるようにそっと触れながら膝を折り、視線を合わせる。
「走ったりしたらつかれてしまうもの。おにいさま、またおねつが出てしまうわ。ローラのせいなの」
十一歳になったエヴェルイートは、すらりと背も伸びてだいぶ大人びた印象にはなったものの、相変わらず体が丈夫であるとはいえなかった。つい先日も、王の狩りに同行したあと寝込んでしまったから、王女はそれを心配しているのだろう。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、わたしはおやさしい殿下のお姿を拝見するだけで元気になれるのですよ」
「……ほんとうに?」
「ええ、本当です」
「それなら、ローラは毎日おにいさまといっしょよ!」
王女は再び笑って、エヴェルイートに抱きついた。
エヴェルイートは、見合い相手であるアウロラ王女にも、すっかり気に入られていた。もはや王宮内でのエヴェルイートの扱いは、「王女の許嫁」そのものである。となれば、こちらの都合だけでさっさと帰るわけにはいかないのであった。
しかしこのころのエヴェルイートはまだ、すこしの罪悪感を抱えながらも「いい加減、帰ってゆっくりしたい」などと思う程度で追いつめられてはいなかった。王女のことだって愛おしく思ってはいたし、ウリシェの優秀なサポートもあってそれなりに快適に過ごすことができていたのである。
だから、気づけなかったのだ。自身が成熟しつつあることに。そしてそのことが、どれだけの苦痛をもたらすかということに。
それを知っていたならば、エヴェルイートは「彼」を避けるべきであったろう。だがその出会いは、ひどくおだやかなものだった。
「やあ、ローラ。ここにいたんだね」
知らない声が聞こえた。振り返る。
上質な衣裳をゆったりと着崩しながら、けれど乱れも無駄もない足取りで、その少年は歩いてきた。
ローラ、と王女を愛称で呼んだ少年に、見覚えがあった。遠くからしか見たことはない。が、立場上忘れることは許されないその顔は、いつもある女性の顔と並んでいたはずだ。そう、少年の母である、国王の第三妃と。
「アレクシスおにいさま!」
アウロラ王女が、嬉しそうに手を振る。エヴェルイートはすぐに王女から離れ、頭を垂れた。アレクシス王子は、あのシリウス王子の同母弟である。内心、緊張していた。
ところが、聞こえてくる会話はずいぶんとやさしい内容だった。
「ローラ、こっそり部屋から抜け出したりするのはよくないよ。女官たちが心配していた」
「ごめんなさい。でもすぐにもどるつもりだったの」
「しかたがないなあ……あとで一緒に謝ろう」
基本的に、王族に対して下位の者から声をかけるのは無礼とされている。だからエヴェルイートは、じっとふたりの声に耳を傾けていたのだが、その親しげな様子に驚いた。王女は兄王子たちに疎まれているものだと、勝手に思い込んでいたからである。
「そなた、……ええと」
と、王子の声がこちらに向けられたので、エヴェルイートは低頭したまま答えた。
「カルタレスをお預かりしております、ブロウト家当主ヴェンデルが子、エヴェルイートと申します。アレクシス殿下」
「そうか、そなたが。ああ、そのように畏まらずともよい、面を上げよ」
「恐れ入ります」
王子の言葉に従い顔を上げると、柔和な笑みがそこにあった。失礼だが、シリウス王子のような整った顔立ちとはいえず、あまり似ているとも思えない。なるほど、あのような噂が立つのもしかたがないかもしれぬ。だが滲み出る王家の気品は堂々たるもので、それでいて窮屈さを与えない知的で落ち着いた眼差しが印象的だった。
「聞きしに勝る美男なのだな、そなたは」
ひとつ年少であるアレクシス王子は、エヴェルイートを見上げながら感嘆の声を漏らした。無遠慮な視線なのに、嫌味がない。ただどこかこそばゆくて、思わず視線を逸らした。
「いや、すまぬ、つい見入ってしまった。そなたの話はよく聞いている。妹がまた世話をかけたようだな」
「いえ、その……とんでもないことでございます」
常ならば、このような場面は無難にさらりと躱すエヴェルイートである。それがなぜだか、いまはうまくできない。どうしようかと思っていると、
「おにいさま、アレクシスおにいさまはね、ずっとおにいさまに会いたいっておっしゃっていたのよ」
幼い王女が救いの手を差し伸べてくれた。
「わたしに、ですか?」
「そうなのだ。だが母上が許してくれなくてね」
王子はすこし気恥ずかしそうに言った。曰く、赤子のころに流行病で死にかけたらしい王子を心配した第三妃に、行動を制限されていたと。
できる限り外部の者と接触しないよう、ほとんど斜殿(王の家族、すなわち王妃、王配やその子、また父母兄弟などに与えられる住まいの総称で、それぞれ玉座の間に対して東西から頭を下げるようなかたちで斜めに配置されていることからそう呼ばれる)の外に出ることも叶わず、出たとしても母が必ず付き添うというような状態だったという。
それはさすがに王子の将来のためによくないということで、サイードはじめ教育係の者たちが第三妃相手に頑張り、なんとか十歳になったら行動の自由を許すという約束を取りつけたらしい。
「母上はそれが気に入らなかったようで、とくにサイードの孫であるそなたを敵視していたのだ」
まあ理由はそれだけではないだろうと思いつつ、口には出さずにエヴェルイートは相槌を打った。無視するようなことをしてすまなかったと謝る王子に、わざわざそんなことを言う気にはなれない。
「だがもう自由だ。これからは仲よくしてもらえると嬉しい」
「もちろんでございます、殿下」
「そうか、よかった。よろしく頼む」
そう言って、王子は握手を求めてきた。エヴェルイートの緊張は完全に解けた。王子の手を、しっかりと握った。
互いの手が、のちにそれぞれの筆で王国滅亡の図を描くことになろうとは、夢にも思わなかった。
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