ある晩のことである。暗い浴場で、蝋燭の火を頼りに女主人の肌を磨いていた少年は、母屋のほうが騒がしいことに気づいた。
「おとうさまのお誕生日のお祝いだそうよ。親しい方々がみなさまお集まりなのですって」
リュシエラはされるがまま、小さな浴槽に身を沈めて、淡々と言った。このころ、少年がこの少女とともに生活するようになってからすでに四年、互いに言葉を発せずとも思っていることはなんとなくわかるようになっていた。
「へえ、そうですか」
興味なさげに少年は答える。事実、母屋のほうに興味はない。ただ、主人の好む静かな夜を邪魔されるのが気がかりなのだ。
「今日は新しい香りなのね」
少女のほうも然して興味はなかったとみえて、すぐに話題を変えた。香油を垂らした湯をすくっては散らし、その香りと、水滴が蝋燭の灯りにきらめく様を楽しんでいる。
「はい、鈴蘭の香りにしてみました」
「鈴蘭……」
「お嬢さま、お好きでしょう?」
離れに面した中庭には、無数の鈴蘭が植えられている。ちょうどこの時期、可憐に咲くその花を主人がいつも遠目に眺めていることを、少年は知っていた。
「……きらいではないわ」
「お気に召していただけたようでなによりです。ああ、でも、花には触っちゃいけませんよ。毒がありますから」
「毒?」
「はい。口に入らなければ大丈夫ですが、鈴蘭の毒にやられると眩暈はするし気持ち悪くなるし、腹も下すしそれから頭痛も……けっこう大変ですよ」
「どうしてそんなことを知っているの」
「試しました。お嬢さまになにかあってはいけないので」
「ああ、そう。おまえは馬鹿なの?」
「ご心配なく。これは他の花の精油を調合して鈴蘭の香りに似せただけのものなので、毒性はありません。鈴蘭の精油も作ってみたんですが、どうも香りが出なくて。それにやっぱり毒が心配ですし……これがなかなかのもので、水につけておいたらその水にすら毒が溶け出して」
「もういいわ。黙って」
「あ、はい」
どうやらべらべら喋りすぎたらしい。にわかに不機嫌になった主人の命に素直に従い、少年は黙々と目のまえの柔肌を手入れし続けた。そのうちに、うっとりとため息を漏らす。もとから綺麗な肌だった。けれども最近は本当に素晴らしい。少年の心が満たされてゆく。
当初は週一回だった入浴も、少年の執念によっていつしか日課となった。体を清め、髪を清め、丁寧に水分を拭ったら、これも鈴蘭の香りづけをしたクリームでマッサージしながら最後の仕上げをする。この一連の流れが楽しくてたまらない。
主人の体が冷えないうちに手早くそれらを済ませたら、飾りつけをしなくてはならない。美しい体には、美しい衣装が必要である。ここにも少年のこだわりがあって、さすがに一から手作りというのはまだできなかったが、主人の美しさを際立たせるためのアレンジを加えた衣装がずらりと並んでいた。
今夜は月が冴えている。心地よい風も吹いているから、ふわりと靡く白い薄布を重ねたドレスがよいだろう。広く開いた胸元から腰までを飾る豪奢な刺繍と、少し裾を引くように作られたスカートに散りばめられたごく小さな花のモチーフは少年渾身のアレンジで、同じ透明のガラスビーズでできている。銀色の月光を浴びればそれらが星のようにきらきらと輝いて、より幻想的に見せてくれるはずだ。そして床につくほど長く大きく広がった袖からは、ほのかな光を放つ白い腕が覗くのである。花顔を俗世から隠すための面紗もさらりとした白で統一し、背中に流したままの髪には真珠の鈴蘭を飾った。
完璧だ。そう、完璧な夜になるはずだった。誰も来ないはずのこの聖域に、無粋な闖入者さえ現れなければ。
「なんと美しい……!」
という感想は、少年の口から漏れたものではない。少年の見立てどおりに仕上がった女主人とともに中庭の見える回廊を歩いていたとき、風に揺れる鈴蘭の茂みの奥から派手な音を立てて現れた男が叫んだ言葉である。
「当たり前だ!」
と思わず即座に反応してしまったが、そんなことを言っている場合ではない。これはかなりの非常事態である。なにせたまに訪れる主人の父親と妹以外は、ここにはだれも足を踏み入れたことがないのだから。
「お嬢さま、あの男をご存知ですか?」
「知らないわ」
一応、確認はしてみる。驚いた様子もない主人のそっけない返事に「まあ、そうですよね」と頷きつつ、少年は闖入者を注視した。自分たちよりはだいぶ年上のようだが、まだ若い。もしこの健康そうな若者が狼藉を働こうものなら、為すすべはないだろう。さて、困ったものである。考えている間にも男は一直線に、だが夢を見ているかのような足取りで近づいてくる。
「ああ、やはり噂は本当だったのだ。ドーバンの古狸め、こんな至宝を隠し持っていたとは……」
なにやらぶつぶつ呟いているのも気味が悪い。そしてなにより腹が立つ。が、まあ現実的に考えて、どうにもできないのが現状であった。
この離れにはもとより使用人も近寄らず、いまはとくに人の気配が遠い。みな、宴のほうで忙しいのだろう。普段は父親の目が光っているのだが、それすら疎かになっているようだ。つまり、助けを求めようにもその相手がいないのである。どうしようもないものはどうしようもない、と少年は開きなおって、じっとその場に立っていた。
やがてなんの障害もなく少年たちの目のまえにやって来た闖入者は、滑稽なほど恭しく膝を折った。
「やっとお会いできましたね、姫」
そう言いながら手を差し伸べる男に、黙れ不細工が、と少年は胸中で悪態をつく。
「あなたとお会いする約束をした覚えはないわ」
「おお、小鳥の囀るような声、実に可憐だ。しかしつれないことをおっしゃいますな。あんなに夢のなかで逢瀬を重ねたというのに」
「そう、ならそれは別人ね」
よし、この男、馬鹿だ。
主人とのやり取りを聞きながら、少年は確信した。しかしだからといって油断はできない。こういう馬鹿が大それたことをしでかしたりするものなのだ……たぶん。外部の人間と接触したことがほとんどないので、よくは知らないけれど。
「おいたわしい……さあ、姫。私とともに外の世界へ羽ばたきましょう。あなたはこんなところに閉じ込められていてよいひとではない」
「その、姫というのをやめていただけるかしら。わたしはただの商家の娘よ」
「なんと、ご存知ないのか」
「なにを?」
「あなたは本当はさる貴いお方の姫君で、とある深い事情からこの屋敷に預けられているのだと、みなが噂しておりますぞ」
その瞬間、主人の顔色が変わった。いや、少年にしかわからないくらいの変化だったのだろう。馬鹿な男は気づかずに、芝居じみた口調で続けた。
「ブロウト家前当主、サイード卿がこの屋敷の主人と懇意にしているのがその証拠だと。哀れな姫君よ、どうか私の手をお取りください。あなたは知らないだけなのだ、その身の不幸を。私が見せて差し上げよう、広い世界を」
「……いいえ、けっこうよ」
「遠慮はいらない、さあ、姫!」
「お黙りなさい!」
強引な男の手が伸びたとき、ついにリュシエラは激昂した。少年がはじめて見る、彼女の感情をあらわにした姿だった。
「わたしが不幸ですって? 哀れですって? 教えてあげましょうか、わたしがどんなにおとうさまに愛されているか。どれだけ幸福か。閉じ込められているだなんて馬鹿なことを言わないで。わたしは、わたしの意志でここにいるのよ」
掴まれた腕を振り払うこともせず、まっすぐに男を見据えて、リュシエラは言った。
「わたしは、この家の娘よ」
少年は胸を打たれた。その、壮絶な美しさと哀しさに。このときはじめて、リュシエラというひとりの人間を認識し、そのひとを愛おしいと思った。離れてはいけないと、思った。
どのくらいそのまま立ち尽くしていたかわからない。いつの間にか駆けつけた使用人が、闖入者の男をつまみ出していた。そのうちにリュシエラの父親が血相を変えてやってきて、娘の無事を確認すると大きく息をついた。
「怪我はないね? 顔を見られはしなかったろうね?」
「ええ、おとうさま。わたし、ちゃんとおとうさまのお言いつけどおりにしていたわ。でも、怖かった。こわかったの、おとうさま」
リュシエラは強く父親に抱きついて、声を震わせていた。
「よし、よし。もう大丈夫だからね」
「おとうさま、今夜はいっしょに寝てくださるでしょう? ねえ、わたしとてもこわかったのよ」
「わかった、わかったよ。リュシエラが眠るまでいっしょにいてあげようね」
「いや。朝までいっしょにいてくださらなきゃいやよ。こわいの、おとうさま」
「お父さまはまだお仕事があるのだよ。手を握っていてあげよう。ちゃんと警備の者をつけるからね、心配はいらないよ。さあ、かわいいリュシエラ」
父親がリュシエラを抱き上げて、甘くとろけきったような声で言った。
「おやすみの時間だよ」
それをきっかけに、リュシエラは怯えたふりをするのをやめた。ただ「はい、おとうさま」といつもの調子で答えただけだった。少年が知る限り、彼女が父や母とともに眠ったことはいままで一度もなく、そして今後もその機会はないだろうと思われた。
その夜はリュシエラの隣で眠ることを許されず、少年は床に丸まって眠った。母屋はまだ騒がしく、ときおり、母親がリュシエラの妹のために歌っているのだろう子守唄が、聴こえた。
さて、ここでようやく「なぜ少年の考案した入浴法やクリームが普及したのか」という話題にたどり着くわけであるが、それについては至極単純な話だった。
まず、あの闖入者の男が「ドーバン邸の鈴蘭の君」の素晴らしさを吹聴する。外部の者としては唯一、リュシエラの肌に触れたことのある彼の話を聞いた女性たちが、その美肌の秘訣に興味を持ちはじめる。それを察したリュシエラの父ドーバンが、リュシエラやその奴隷の少年から聞き出した特製化粧品の数々を商品化し、その使用法とともに売り出した結果、爆発的なヒットとなって間もなく人々の生活に根づいたのである。
そのおかげでリュシエラに関する噂にも尾鰭がついてますます注目度が上がり、父親の商売におおいに貢献することとなった。以前にも増して気前のよくなった父親はリュシエラの望むものを次々と買い与え、離れはいつしか宝の山となった。目が眩むような宝の山のなかにいて、それでもなおリュシエラは独りだった。
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それからさらに一年ほど経った、うららかな昼下がりのことである。出会いから五年、輝きを増した豊かな髪に櫛を通し、少年はその素晴らしい手触りを噛みしめていた。そのころには海藻を使った洗髪方法なども編み出したりしていて、少年は諸々の腕を上げていたしリュシエラはその魅力に磨きをかけていた。
「暑くなってきましたから、結い上げましょうか」
「なんでもいいわ」
「新しい髪飾りを作ったんです。お髪に挿してもいいですか」
「好きにして」
窓から差し込む光が、リュシエラの青みを帯びた黒髪を照らす。深い紫色の瞳には、遠く広い空が映っていた。この、夜の空気を思わせる髪や目の色が、ウルズ王国の支配層を占めるパルカイ民族に特有のものであるということを、彼らはまだ知らない。
ただ、この日、少年はそれとなく理解することになる。
綺麗に結い上がった髪に小さな星を飾り終えたとき、鈴の音が響いた。
この鈴は母屋と離れの境界線に置かれたもので、だいたい母屋のほうから少年を呼び出す際に鳴らされる。少年が母屋に呼ばれるのは珍しいことではなく、いつものように気が向かないながらもその音に従った。実をいうと、少年自身はドーバン邸敷地内に限り行動範囲を制限されてはいない。つまり主人よりよほど自由な身なのであるが、少年はその自由を放棄しがちであった。
食事はさっき済ませたから、配膳のために呼ばれたのではなさそうだ。離れでの暮らしは快適だが、厨房がないのが気に入らない。他の使用人が作った料理を母屋へ取りに行くたびに、なんとも歯がゆい思いをするのである。
リュシエラのそばを離れたくない少年は、頭のなかで文句を言いながら母屋との境界にやってきた。するとなぜだかひどく慌てた様子の使用人が、足をばたばたさせながら手招きしている。
「は、早くはやく! あんた、すごいことになってるよ!」
そのまま強引に手を引かれて、走り出す。向かった先は屋敷内でもっとも広く豪華な応接間で、入るまえに軽く身なりを整えさせられた。
「し、失礼いたします。連れて参りました」
声の裏返った使用人に小突かれて、しぶしぶ入室する。
「失礼いたします。お呼びで……」
とお決まりの台詞を言いかけたところで、言葉を失った。
とんでもなく美しいひとが、そこにいた。
年のころは十六、七の、おそらく青年、だと思う。不思議と性別を感じさせない、やさしいが凛とした佇まい。短く整えられた青く艶めく黒髪はさらさらと流れ、深い紫色の瞳は磨き上げられたアメシストのごとく煌めいている。一目で上等とわかる衣服に包まれた肌にはところどころ傷痕があるのが惜しいが、たいして手入れもされていないだろうに自ら光を放つようだ。そしてなにより、その容貌。
どことなく似ている。尊い主、リュシエラに。
いや、それより目に見えない、もっと根本的な部分がそっくりなのだ。
「なにをしている、跪け、無礼者!」
惚けたように突っ立っていると、どこからか叱責が飛んだ。それが小声だったのは、客人に対しての遠慮の現れだろう。跪く、という行為を、少年はいままでにしたことがなかったし強要されたこともなかった。それは、そうするほどの身分のひとに会う機会がなかったからだ。でも、いま、それを必要とされている。その意味を解さないほど、少年は世間知らずではなかった。
「よい」
玲瓏な声が、静かに制した。声の主はやはりかの美しい客人で、みな畏まってその短い一言に従った。
「すまぬな、突然呼び立てたりして。そなたも忙しい身だろうに」
客人はほほ笑み、少年に歩み寄る。そこに屋敷の主人ドーバンが、焦った様子で割り入った。
「おそれながら、そのような卑しい身分の者に……」
「教えを乞おうというときに、身分もなにもあるまい」
「しかし、エヴェルイートさま」
ドーバンが口にしたその名に、聞き覚えがあった。かつてリュシエラが教えてくれた、この国の支配者とそれを取り巻く高貴な人々。たった一度耳にしただけだったが、少年の優秀な頭脳はすぐにその情報を記憶から引き出した。
そうか、では、この人が――
「――領主さまの、ご子息」
リュシエラと同じ色彩を持つ、このひとが。
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